ケータイ辞書JLogosロゴ 警固屋(中世)


広島県>呉市

 室町期から見える地名。安芸国安南郡のうち。応仁元年,応仁の乱に西軍に参加した大内政弘上洛軍のなかに「海賊衆先陣 ノウヘ クラハシ クレ ケコヤ」と見える(経覚私要抄)。大内軍の大船団の先導をつとめた安芸海賊衆のなかに警固屋の海賊衆が参加していた。この海賊衆は,警固屋氏を称しており,文明10年,少弐氏を破った大内政弘から筑前に新恩給地を給与された安芸衆のなかに「警固屋掃部助忠秀」が見え(正任記),天文10年正月,郡山合戦における小早川興景軍の手負注文に「警固屋小次郎」の名が見える(小早川家文書)。警固屋氏が大内氏水軍の中核である呉衆の一員として,各地に転戦したことがわかる。「芸藩通志」に見える堀城は,警固屋氏の居城と思われる。大永年間,尼子氏の南進によって芸南一帯の大内氏勢力は駆逐されるが,大永3年8月厳島を奪回して反攻に転じた大内氏水軍は,9月17日夜,能美・江田島を襲い(山野井文書),20日夜に「警固屋鋪」に放火している(譜録)。一方,小早川水軍を掌握し,警固屋の対岸「瀬戸城」に拠点を置く乃美兵部少輔へあてた小早川弘平書状に「警固屋辺之時宜一々示給候,誠可然儀ニてこそ候へおかしく候,替時宜出来候者尚々可承候」と見え,弘平が乃美氏を通して当地の動きに強い関心を示している(乃美文書)。呉衆は,大内(陶)氏・毛利氏断交後は陶方につき,警固屋氏も山本・檜垣氏らとともに陶方として転戦,本貫警固屋をはじめ知行地は没収された。天文23年10月,小早川隆景が金山右京進に宛てた芸州加茂郡広浦之内百貫文打渡状写に,「檜垣肥前守先知行分」,「山本四郎先知行分」とともに「警固屋先知行分」が見え(閥閲録95),木原源右衛門宛の芸州加茂郡広浦五貫文打渡状写にも同様の記載があり(三原志稿),警固屋氏が広浦に有していた知行地が小早川隆景の手によって没収され,家中に宛行われたことがわかる。なお,内容は不明瞭であるが,永禄5年正月7日の佐藤元実宛毛利隆元書状写に「けこやにても候へ,河上にても候へ」とある(閥閲録97)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421836
最終更新日:2009-03-01




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