ケータイ辞書JLogosロゴ 郡戸郷(中世)


広島県>河内町

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。安芸国豊田郡のうち。建武3年11月26日の足利尊氏寄進状に「寄附……安芸国……郡戸郷……右,当寺造営之間,奉寄之状如件」と見え,京都本圀寺造営のため当郷を寄進したことが見え(本圀寺文書),貞和3年5月には園城寺新羅社造営にあてられ,文和元年10月6日の足利義詮寄進状でも当郷地頭職が園城寺に寄進されている(園城寺文書)。永仁5年安芸国は東寺永代修造国とされ,当郷も東寺が国衙職を保持したが,至徳2年10月14日の室町将軍家御教書などによると小早河左近将監の押領が進んでいた(東寺百合文書)。応永20年の小早川則平自筆譲状や同21年の小早川常嘉譲状案写によると,「郡戸郷地頭并公文職事」が本荘惣領家の所領となっていた(小早川家文書)。やがて大内・平賀氏が進出し,応永32年正月6日の沙弥智弘打渡状および安芸郡戸郷土貢支配状によると,この時平賀氏は当郷に50貫の所領を得ており,重富・貞国・兼吉・末吉・得弘・光吉・貞光・恒久・新門田・国衙などからの収取であった(平賀家文書)。また山口の興隆寺千部経料所でもあり,このような大内・平賀の進出に対して,幕府は応仁2年3月17日の幕府奉行連署奉書などで小早川惣領家平への還付を命じており,文明3年4月28日将軍家御教書では平が新荘椋梨家とともに久芳・戸野・郡戸・河内・造果などの城を攻撃するに至っている(小早川家文書)。しかし大内・平賀勢は根強く,文明11年4月13日の大内政弘寄進状でも「安芸国東西条内戸野郡戸正税百弐拾貫文」の興隆寺寄進を確認している(興隆寺文書)。大永3年8月10日の安芸東西条所々知行注文によれば,郡戸村230貫の内180貫は平賀氏知行で,残り50貫は「多治比抱」とあり,天文23年6月21日の毛利元就・隆元連署状では「東西条之内寺町之内助実方,次郎丸方,郡戸五拾貫」を新たに平賀広相に宛行っている(平賀家文書)。天正11年正月には,毛利輝元が志道元保に安堵した所領のなかに「郡戸公文分」があった(閥閲録16)。文禄4年9月21日の平賀元相・市松連署起請文案や同年10月24日の平賀氏知行付立案では,郡戸・上河内として532石余,田62町余・畠17町余,家数73であった(平賀家文書)。「芸藩通志」に城跡として草城・後城を記す。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421876
最終更新日:2009-03-01




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