ケータイ辞書JLogosロゴ 西城町(近世)


広島県>西城町

 江戸期〜明治22年の町名。奴可郡のうち。広島藩領。明知方。古くは入江村のうちであったが,寛文10年町場が西城町となった。村高は,「芸藩通志」118石余,「旧高旧領」では西城村と見え同高。「芸藩通志」によれば,戸数183・人数773,村の広さは東西5町・南北8町,牛20・馬15,「一市南北に通し,東は川に界ひ,西は山林なり,居民市中は工商割鉄場二所あり,市端は農夫傭夫あり」とある。神社には爾比都売神社・厳島神社・胡子社・天満宮などがある。奴可郡の式内社邇比都売神社は所在不明となっていたが文化14年当社を仮勧請(国郡志書出帳),文政7年建立が許され,天保年間現在地に社殿を創建。厳島神社は当町の産土神とされ,鎮座地の亀尾山も厳島大明神にちなみ明神山と呼ばれるようになったという。寺院には浄土宗亀尾山永照院全政寺と浄土真宗大富山蓮照寺がある。元和5年広島へ浅野氏が入部すると,代官所が置かれ(正徳2年〜享保3年は廃止),奴可・三上両郡の政治上の中心地となった。出雲路・備中伯耆路が通る要地で,「芸藩通志」に「西城駅 伝馬十匹を設く,逓送東は東城に至る五里,南西は三上郡庄原に至る三里半」とある。寛永17年には町並3町半間・家数97(県史)。西城・東城は鉄の集散地として繁栄し,「西城,東城くろがねどころ」と歌われた。西城町御鉄会所(元文5年閉鎖)が置かれた。古くは,元和2年平戸イギリス商館長のリチャード・コックスが,鞆においては鉄需要が大きく希望量だけ購入できなかったと日記に記しているが,当地方産の鉄も含まれていたものと思われる(平戸イギリス商館日記)。文政7年以降牛馬市が栄え西城市の名で知られた。鉄の輸送には,西城川のうち恵蘇郡門田【もんで】村と三次【みよし】郡三次町の間に舟運の便があったが,西城までの延長が計画され,安政5年に調査が行われた。寛文年間頃から奴可郡全寺院が8月13日に宗門人別帳を代官所へ提出するようになり,この日に判形市がたちはじめたという。延宝年間の代官上坂三郎兵衛は五日市坂口の下,西城川岸に水牢を設け寒中に年貢未納者を押し込めたという。享保3年恵蘇郡山内組(庄原市)に発し全藩に及んだ享保一揆の際には西城の指導者7人が町尻板大橋(のちの大橋)下の河原で打首となった。正徳2年に廃された代官所は享保3年再び置かれた。飢饉は,元禄9年や延享11年・天明3年・文政6年・同9年・天保2〜9年などにあり,文政6年の旱魃には全政寺の釣鐘を西城川に入れ雨乞祈願を行ったという(西城町郷土史略年表)。藩では正保2年各郡に目安箱を設置し間もなく廃止したが,正徳2年復活し西城町にも置かれた。宝永7年・寛保元年・寛政11年・文化3年・同5年には町内全焼の大火があった。文久元年藩主浅野長訓は西城地方を巡視し桟敷屋に宿泊。明治4年広島県に所属。同6年西城区会議所(旧千手院境内,現西城小学校校内)に学舎を設け,英語・習字を教えたという。同7年小学校を開設,集成舎と称し,同9年西城学校と改称。西城川対岸の大佐村五日市を結んでいた藤下りの板橋(牛馬の渡れないもの)を改め,同8年開明橋を架設。同10年西城に三次警察署西城分署を置く。同11年には奴可・三上郡役所を西城町横町の蓮照寺に置く。同12年西城学校を西城小学校と改称。同13年蓮照寺前に灯明台を設置。同19年西城川大洪水のため開明橋・大橋が流失。同20年西城養蚕伝習所を開設。同21年西城高等小学校を設置。同年の戸数239・人口1,321。同22年西城村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7421988
最終更新日:2009-03-01




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