ケータイ辞書JLogosロゴ 敷地村(近世)


広島県>吉舎町

 江戸期〜明治22年の村名。三谿郡のうち。広島藩領。村高は,元和5年「知行帳」934石余,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに944石余。戸数・人数は,宝暦11年の御巡見様御通筋覚書214・1,039,「国郡志書出帳」251(百姓238・職人5・社家2・寺3・医師1・浮過2)・1,139,「国郡志書出帳」によれば,農業一途の村柄で,知行地と蔵入地が入り交じり,村の広さは東西32町・南北25町,文政2年の土免は村高の52.2%(毛付高の57%)で本年貢の60%は三原の米蔵へ納入し,残りの40%は所払いが認められていた。小物成銀は職人4人の水役銀のほかに家役・綿役・茶役・山役・竹代・諸島運上・灰運上・雉子札が課せられ合計銀181匁余。水田への水掛りは4割方が馬洗川とその支流に依存し,残りは溜池に依存していた。村内55か所の溜池のうち江戸期に入って建設されたものは16か所。神社は丑寅神社・八幡神社・山王権現・天満宮・牛頭天王社・聖霊権現社,寺院は真言宗修鈴山大楽寺・同宗真御山西坊(廃寺)・臨済宗妙心寺派万照山西光寺(最広寺),ほかに辻堂32。8月16日の八幡神社祭礼に奉納された素人相撲は近在に知られた恒例行事であった。村内の飛郷蜂郷は三次盆地を一望できる山頂近くに立地する集落で,旱魃に際してしばしば雨乞祈祷の行われた所,文政6年7月には三谿郡内の浄土真宗以外の諸寺院の僧侶・神職全員300名余がここへ参集し,郡内各家1人計3,015人の群集も松明各1本を持って同所ほか2か所へ集って千把火焚きの行事が行われた記録も残る(旧記帳)。明治4年広島県に所属。同年吉舎村にあった正義館を村内真御堂に移して改称した由道館は,郡内の有志が水田数町を寄付して経営され,広島藩儒官石津宗二を招き,県北一帯から遊学するもの年々70〜80名に達した。同12年変則中学校としたが翌年休校し,同20年郡内唯一の三谿高等小学校として再発足した。明治15年郷蔵を利用して小学校が発足,同20年蜂郷にも小学校を設置した。同21年の戸口は275・1,515。同22年吉舎村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422094
最終更新日:2009-03-01




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