ケータイ辞書JLogosロゴ 志摩利荘(中世)


広島県>神石郡三和町

南北朝期〜戦国期に見える荘園名備後国神石【じんせき】郡のうち「和名抄」の神石【かめし】郡志麻郷の地で,現在の三和町中心部一帯を荘域とする油木八幡神社蔵の応安7年の年紀のある大般若経330巻奥書に「備後志摩利庄上保」と見える康正2年の造内裏段銭并国役引付によると,幕府政所執事伊勢氏一族の伊勢備後入道が「志摩利庄段銭」5貫文を京済している「親元日記別録」政所賦引付によると文明6年には志摩利荘代官であった備中国荏原地下人の守護被官平井安芸守が,年貢上納物を押領したことで,伊勢七郎右衛門尉貞との間に紛争が起こっているこれは備後国内に本領を持たない伊勢氏が,実質的な志摩利荘支配を請負代官に依処していたためである明応4年12月29日の室町幕府奉行人連署奉書には「御料所備後国志摩利庄」と見え,室町幕府御料所であったことがわかる(前田家所蔵文書)また同文書では齢阿による当荘地頭職内公文名本役分の未進と,延末・行里・重藤ならびに長宝寺領内田地7反に対する宮遠江又五郎の押妨が停止されており,伊勢氏の支配は不安定なままであった戦国期の当荘は備後国の東北国境に近いため,軍事的に重要な位置を占めていた大永から天文年間のものと思われる11月17日付大内義隆書状によると,義隆は神石郡まで南下してきた尼子軍と対抗するため,毛利氏や外郡衆に志摩利口への集結を要請している(譜録)また永禄2年にも毛利隆元が尼子方勢力との対抗のため,国衆を志摩利表に集結させている(閥閲録128)当荘の在地領主として戦国期に台頭してきた馬屋原氏は毛利氏との間に養子縁組を重ね,この地域における毛利氏支配の拠点となり,永禄11年2月7日には志摩利荘250貫を(閥閲録41),慶長2年8月26日にも志摩利の内80石を与えられている(譜録)そのほかには天正19年11月30日に毛利輝元が乳母に「志まりの内ささき村百石地」を(有福文書),文禄3年4月3日に輝元が大多和市若へ「志摩利之内八十石六斗余,同所拾弐石六斗」を(閥閲録123),慶長2年9月1日には粟屋太郎兵衛に「志摩利之内拾石弐斗」を給しているのが知られる(同前68)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422161
最終更新日:2009-03-01




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