ケータイ辞書JLogosロゴ 下平良村(近世)


広島県>廿日市市

 江戸期〜明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち。元禄13年平良村から分村して成立。ただし「天保郷帳」では平良村一村として見える。広島藩領。蔵入地・給知が入り交じる地。村高は,「芸藩通志」882石余,「旧高旧領」884石余。戸数・人数は,文化3年村高家数人数神社寺院書抜帳63・383,「芸藩通志」106・479,安政6年組合十五ケ村諸事書出帳120・491。「芸藩通志」によれば,村の広さは東西8町余・南北14町余,田畝74町余,村の生業は「民産十の三は耕作,其余は商売浮業相雑る」,牛16・馬9,山に小野山があり,神社は氏神熊野新宮,福島社(現福佐売神社)は福島明神とも称し,頼惟柔は「福島社記」を著して「三代実録」貞観14年の記事に「節婦安芸国佐伯郡人榎本連福佐売 叙位二階」とある福佐売を祀ると考証,寺院はなく,廃寺に法道寺・真能寺・真成寺・法正院・小野寺があり,いずれも速田神社(上平良)の供僧寺と伝える。地内の畠中に五百太神子と呼ぶ古石塔があって人がこれに触れることを禁じ,また登牟古(頓古)の地名が残るが,これらは「続日本後紀」天長10年の記事に見える「力田佐伯郡人伊福部五百足,同姓豊公」の故地と伝える。また婦久志と呼ぶ石が柿樹の下にあり,俗に「ふぐしま」と称して木石ともに尊敬し,これに触れることを禁じたという。松井氏は代々厳島外宮(現地御前神社)の祝師職を勤む。安政6年の村高のうち76石余が蔵入地,残る806石余が大谷幾次郎ほか14人の給知,川合(可愛)の地は廿日市に連接し町屋を形成して商家が立ち並び,可愛川の川すそに梁をかけて白魚を取った(組合十五ケ村諸事書出帳)。地内に小方加賀守の居城と伝える藤掛尾,城主不詳の越垰尾の古城跡があり,池ケ谷に弘法の腰掛石・弘法川の水など弘法伝説が伝わる。元禄8年沖新開(3石余・6反余),宝暦10年榎久保新開(1石余・4反余)が高付けされた。村内を山陽道と石州往還が通り,助郷は天保6年に山陽道廿日市宿へ伝馬46・人足23,同玖波宿(現大竹市)へ伝馬13・人足13が徴発されている(郡用諸事控/和田家文書)。慶応2年長州戦争では可愛に砲台・番所が築かれ,戦災により民家49軒を焼失(同前)。明治4年広島県に所属。翌5年の戸数208・人口887。同7年可愛にあった社倉事務所を使って小学校義黌が開校,生徒数は男47・女19(文部省第2年報)。同11年に藤掛〜可愛間の新道が開通し,同20年からは可愛〜広島間に乗合馬車が運行を始めた。明治12年に榎ノ窪沖の海面2町5反余の埋立てが行われた。同21年の戸数159・人口757。同22年平良村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422258
最終更新日:2009-03-01




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