ケータイ辞書JLogosロゴ 瀬戸(中世)


広島県>音戸町

南北朝期から見える地名安芸国安南郡のうち「鹿苑院殿厳島詣記」康応元年3月10日条に「おむどのせと」と見え,音戸ノ瀬戸はのち単に瀬戸とも称され,また中世に波多見島と称された地(のちの瀬戸島)も戦国期には瀬戸と呼ばれるようになった長享元年11月14日の国貞敬国宛小早川敬平書状写に「瀬戸出陣之事」,同年11月21日の国貞敬国宛小早川敬平書状写に「去五日瀬戸城責落砌」とあり,当地で波多見島の領有をめぐり小早川氏と野間氏の間で合戦があったことがわかる(閥閲録遺漏2-2)同様のことが,年未詳11月27日の小早川弘平宛内藤弘和書状写,同日付の小早川弘平宛内藤弘和書状写,同日付の内藤弘和宛相良正任岡部武景連署奉書写に見られる(小早川家文書)天文23年8月26日の渡辺房宛毛利隆元書状に「呉・瀬戸両所普請申付候」(譜録),同様のことが,年未詳4月27日の渡辺房宛小早川隆景書状に見え(古文書纂)毛利・陶両氏の断交後,当地と呉の普請が命ぜられている弘治元年と推定される9月26日の毛利元就書状写によれば,小早川隆景が警固のため瀬戸へ向かっている(閥閲録遺漏3-2)当地は戦略的要地であり,軍事的拠点であった天正20年正月24日,豊臣秀吉は毛利輝元に秀吉本陣用として瀬戸と尾道の間の船を用意させている(毛利家文書)また,文禄2年3月18日の歓仲書状写によると,瀬戸などの舟奉行に名護屋への継船1艘を用意させている(閥閲録遺漏3-3)「輝元公御上洛日記」には,天正16年7月9日「午ノ刻ニ瀬戸を御舟被出」とある年未詳11月19日の小早川中務少輔宛大内教幸書状写に「波多見島瀬戸城」とあり,瀬戸城が波多見島内にあったことがわかる(小早川家文書)また厳島廻廊棟札写(大願寺文書)に,天正2年6月,同7年6月,同9年6月,同10年12月に瀬戸の宮原隼人佐が見えるが,この人物は「芸藩通志」に警固屋村堀城主と記されている
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422422
最終更新日:2009-03-01




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