ケータイ辞書JLogosロゴ 高洲(中世)


広島県>尾道市

 鎌倉期から見える地名。備後国御調【みつぎ】郡のうち。高須とも書き,高洲社・高洲荘ともいう。当地に鎮座する八幡宮を中心にその社領が荘園化したため,この称がある。延応元年9月26日付将軍藤原頼経家政所下文に「備後国高洲社住人」とあり,この時,陸奥国長世保木間塚村に相伝所領を有した山鹿四郎(藤原)遠忠と山鹿五郎政遠の兄弟が同所の替わりとして当地の地頭職に補任された。この「備後国高洲社半分地頭職」は代々山鹿氏に伝領されて,鎌倉末期〜南北朝初期には山鹿孫三郎藤原遠泰が地頭であったが,南北朝内乱の余波で没落し闕所となった。観応2年2月15日付将軍足利尊氏袖判宛行状・文和元年10月2日付施行状によれば,「備後国高須社地頭職〈山鹿孫三郎跡〉」とあり,当地地頭職は三吉又五郎秀盛に宛行われている(山口県文書館所蔵文書)。しかし一方,「閥閲録」巻67所収の観応2年2月15日付袖判下文によれば「備後国福田庄高洲地頭職」は,杉原保を本拠とする杉原氏の庶流杉原彦太郎信平に宛行われている。この文書にはなお検討の余地があるが,実際に杉原氏は南北朝初期から当地に進出していたと考えられ,信平の孫光盛の代には,光盛子息の元盛・行勝がそれぞれ木梨荘・高須社に拠って木梨杉原氏と高須杉原氏を立てている。杉原(高須)行勝は,応永34年11月に「備後国高洲庄同国竹名」を子息光忠に譲った。その後,当地は盛忠・元忠・盛忠・光忠(元盛)・元胤・元士と代々高須氏に受け継がれた(閥閲録67・山口県文書館所蔵文書)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」によると杉原千代松丸(元忠)は「備後国三原浦并高須社分」として8貫250文の段銭を課されている。元忠は,文明12年12月,守護山名氏奉行人大田垣美作守を証人として自己の死後に「高洲三ケ所」を弟盛忠に渡すことを約している(閥閲録遺漏4‐2)。なお,当地内の地名としては,延徳4年4月27日付高須盛忠譲状に「大田・あくさ・ふか田」,永正6年7月12日付高須元盛譲状に「竹内・浜蔵」などが見える。また延徳4年の盛忠譲状に「備後国福田庄之内高須社」とあるのをはじめ,これ以降,当地を福田荘内とする文書が散見される(山口県文書館所蔵文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422512
最終更新日:2009-03-01




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