ケータイ辞書JLogosロゴ 多田村(近世)


広島県>湯来町

 江戸期〜明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち。広島藩領。蔵入地。村高は,元和5年「知行帳」622石余,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」も同高。永禄8年12月18日の毛利元就宛行状写に「見乃地……同所小多田名」と見え(閥閲録68),また慶長6年の検地帳にも「佐西郡ミのち内多田村」とあることから,戦国末期から慶長6年までは水内村に属し,同年の検地によって村切りが行われ成立。「芸藩通志」によれば,村の広さは東西4里・南北2里15町,戸数417・人数1,636,村の生業は農業のほか紙漉・山稼ぎに多く従事し,牛180・馬56,名勝に天狗岩・船岩などの奇岩と竜口瀑・魚限淵があった。また神社は宝亀年間に勧請したと伝える氏神八幡宮とその末社4社があり,寺院は浄土真宗善福寺(慶長16年僧浄雲開基)・清水山西法寺(慶長18年僧宗清開基)・万正寺(元和元年僧正円開基)があった。村内は,大谷・雲出・本多田・小多田の上多田組,白井・弥平谷・来栖根・日入谷・豆栃・湯来の中多田組,田布・向井谷・赤谷・日室・打尾谷の下多田組の3組に分かれていた。このうち下多田組については,延宝7年多田村之内日室村分田畑本帳などがあって,宝永年間頃まで日室村の呼称が使われており,また中多田組でも来ス根村・日入谷村の呼称があった。慶長6年の検地帳は中多田分と下多田分が残っているが,そのうち中多田分には「ふろの本」の地名とともに「風呂屋敷」3筆が見え,すでにこの頃から風呂屋敷のあったことが知られる。「芸備国郡志」に「温湯 佐西郡下多田中雪(湯木)村有河,其河水之一条,有温湯流出」とあり,また寛政9年この地に来遊した岡岷山は都志見往来日記に「八月廿五日……多田村の湯来に至る,橋を渡りて温泉に至る,民家二,三十軒も有へし……往古より此地湯の湧故を以て地名も湯木と唱るといへり」と記し,温泉と天狗岩・船岩周辺の景観図を載せている。当村の主要な産物である板材木や炭などの山荷物は,藩からの仕入銀をうけた御用荷物として水内川を川船で下り,太田川を通じて広島城下へ積み出された。また和紙の生産も重要な産業の1つで,「国郡志佐伯郡辻」によれば,文政2年頃当村には191人の紙漉がおり,その製する半紙は諸郡で上品との評価をうけていた。享保3年には当村でも一揆が起こり,菅沢・和田・麦谷・下の各村などの農民とともに玖島・友田村方面まで出張した(和田家文書)。助郷は,天保6年に山陽道廿日市宿へ伝馬53疋,山陽道玖波宿へ伝馬9疋が徴発されている(郡用諸事控/和田家文書)。特徴ある小字に日室があり,氷室によるかと推定される。明治4年広島県に所属。同年県内全域で起こった武一騒動には当村の農民も多数参加した。翌5年の戸数367・人口1,655。同8年に日入谷の善福寺内に小学校旭昇舎が開校,生徒数は男55・女3(文部省第3年報)。同14年に来栖根に移転して下多田小学校と改称,同20年下多田簡易小学校となった。また明治8年上多田に開設された旭昇舎分教場,同14年に開設された下多田小学校打尾谷分教室が同20年にそれぞれ上多田尋常小学校・打尾谷尋常小学校となった。同21年の戸数411・人口2,024。同22年上水内村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422608
最終更新日:2009-03-01




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