ケータイ辞書JLogosロゴ 田総荘(中世)


広島県>総領町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。甲奴【こうぬ】郡のうち。荘域は現総領町域から吉舎【きさ】町の一部にまたがる。承久の乱後,長井時広が田総荘地頭職に補任され,泰重・重広(田総氏祖)へと相伝,重広の子時継の時,領家との間で下地中分された。嘉元3年6月10日の雑掌成観地頭代重宗連署和与状(田総文書)は,最初の中分の再調整に関するものだが,領家方となっていた下村の地頭土居門田畠は,尾木村を付して,地頭方の弘地村・横張村・大町村・新見村・岩田村・高田村・森戸村・友町上垣内・井原下垣内の9か村と交換され,さらに「増分」「境相論」「別儀」を名目に,金屋村や延福寺・同寺領など領家方の地が地頭方に繰り入れられており,地頭田総氏の領主支配の浸透が知られる。なおこの和与状に見られる村々は金屋が木屋村になったと伝える以外,遺称地はない。またこの中分で,領家方は下領家以東を領し,地頭方は稲草以西の地を領したと推定される。南北朝期に入ると,貞和元年12月17日,時継子息重継が足利尊氏から田総荘・小童【ひち】保・長和荘東方を安堵され(閥閲録89),以後代々,相伝安堵されている(田総文書)。しかし現実の田総氏の所領支配は危機に瀕し,備後国内の本領長和荘・新恩地石成は能里の代に宮兼信が,田総荘もその孫時里の代に宮豊松がそれぞれ押領し,田総氏はその回復のために懸命に努力している。その間,同氏は守護山名氏に臣従し,地毘荘の山内氏に属して各地に転戦している(閥閲録89)。一方,明応5年10月21日,山内豊成は守護山名俊豊から田総領家を知行分として認められ,同じ頃田総地頭分も給分として宛行われている(山内首藤家文書)。この間,年未詳12月17日付山名宗全書状(日下文書),長禄4年正月13日備後守護山名是豊遵行状(長福寺文書)によれば,室町期の領家方は長福寺塔頭大祥院が領家職,南禅寺禅源院が預所職であった。また,室町期の当荘には熊野信仰も広まっていた(熊野那智大社文書)。なお天文13年3月,毛利氏は,南下してきた尼子氏の軍勢と田総で戦い,撃退している(毛利家文書・閥閲録遺漏1-2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422631
最終更新日:2009-03-01




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