ケータイ辞書JLogosロゴ 中馬村(中世)


広島県>吉田町

 南北朝期〜戦国期に見える村名。安芸国高田郡内部荘のうち。建武元年2月22日の源頼高契約状に「内部庄中馬村地頭惣領庶子等契約条々事」とあり,南北朝初期は安芸国の有力在庁官人源頼宗の系譜をひく源頼高の所領であったが(熊谷家文書),応安4年3月21日,「内部庄地頭職」が幕府より毛利元春に預置かれたのちは毛利氏の所領となった(毛利家文書)。永正4年の毛利興元上洛浮役日記に「一,二百貫 中馬」とある(同前)。永禄11年正月24日,毛利元就は「ちうまみたう(中馬御堂)のうち田壱段ならひにくらほう屋しき一ケ所」を「めめこ」に,同年3月10日,元就・輝元は「中馬之内妙観寺領重吉名田数壱町七段」を三吉九郎右衛門尉に,また元亀元年「中馬之内赤川左京亮拘ちり田五段」を山田与次郎に宛行っている(譜録・諸臣証文・閥閲録遺漏1-2),このほか譜代家臣粟屋元通より元定へ譲与された田1町2反,同中村就親の給地「中馬之内時友半名田八段」もあり,このうち中村就親は,天正8年子息元定に給地を譲与し,8月26日,元定は輝元から譲与の安堵を得ている。これと前後する頃,同族の中村内蔵丞は「当年中馬村八幡祭」を勤めるため,8月5日から10日まで暇を遣わされている(閥閲録74・譜録)。ついで天正18年5月3日,譜代家臣児玉源兵衛尉は,検地奉行人より「高田郡中馬村」にて田3町大40歩,畑3反,屋敷4か所を打渡され,慶長5年の再検地においてもこれを安堵されている。また慶長4・5年頃,石井勝家は「中馬村」にて田2町8反7畝20歩,畑3反7畝,屋敷1反3畝を(石井文書),同5年2月1日,入江氏は「中馬村国定 粟屋縫殿(元定)先給 屋敷五畝 代三百文」「国定 屋敷田三反八畝」「せいふけ 畠六畝」,屋敷1か所をそれぞれ検地奉行人より打渡されるなど,毛利家給人の給地が散在した(譜録)。なお,毛利元春の子忠広は中馬氏を名乗っている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422677
最終更新日:2009-03-01




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