ケータイ辞書JLogosロゴ 津田郷(中世)


広島県>世羅西町

鎌倉期〜戦国期に見える郷名備後国世羅郡のうち「華頂要略」に安居院領の1つとして「備後国津田荘」が見える地頭職は山内一族のうち通時の子孫が伝領弘安4年山内是通(通時の息)は他国の所領とともに子息通茂に「津田・敷名両郷」の地頭職を譲与するが,通茂は翌弘安5年に後家分を除いて津田郷地頭職を山内通増に譲与している(竹内文平氏旧蔵文書)ただし山内氏の系図によれば通増の名は見えず,通茂の子は通藤となっている地頭職はその通藤を経て通宗へと伝領されたが,通宗の死後,その後家尼性忍と通藤の後家尼真如との間で,津田郷下村地頭職と通宗の遺児土持丸の扶持をめぐる相論のあったことが,正中2年6月12日の関東下知状によって知られる幕府は性忍の方に下村地頭職の知行と土持丸の扶持を認めている土持丸はその後通継と名乗り建武3年に京都で戦死したが,その前年の建武2年11月28日,外孫里見土用鶴丸を養子として津田郷地頭職ほかの所領を譲与しているところが守護朝山景連によって津田郷は闕所地とされてしまい,建武4年3月,土用鶴丸の代官時吉がその旨を訴えているその後土用鶴丸は山内通知と名乗り,永和3年2月11日には養子山内若鶴丸に地頭職を譲っているが,康暦元年に三吉入道義円によって訴訟が起こされている津田郷にはこの頃惣領地頭のほかに和田村地頭職も成立しており,山内通氏が所持していたが,これも広沢四郎五郎なる者の押妨にあっている(山内首藤家文書)おそらく山内一族の知行は実質を失いつつあったものと思われるその後15世紀末に津田郷は毛利氏の支配下に入った明応2年2月7日の山名俊豊安堵状によれば,毛利弘元が備後国の先の知行分として守護より安堵された所領の中に津田郷の名が見える(毛利家文書)毛利氏は,永正5年10月10日には渡辺七郎右衛門尉に対して郷内の是弘名・行連名・中村名・宗末名・鋳物屋・法泉名の6名を,翌6年閏8月3日には粟屋縫殿助に対して石道・末数の両名を,また天文2年4月30日には上山加賀守に対して宗綱分5名を,それぞれ宛行っている天正末期の惣国検地では,上山氏が津田郷に30石余りの知行地を有しており,慶長5年には久井五郎右衛門が63石余りの知行地を与えられている(閥閲録87・74・40・89)このほかに,永正3年7月24日の備後国廊之坊先達注文と年欠(慶長年間頃)実報院諸国檀那帳に津田の名が見える(熊野那智大社文書)近世には上津田・下津田の2か村に分かれた
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422713
最終更新日:2009-03-01




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