ケータイ辞書JLogosロゴ 堂崎(中世)


広島県>尾道市

鎌倉期から見える地名備後国御調【みつぎ】郡のうち防地川を境とする尾道浦の東端部,浄土寺付近を指す正安3年6月21日付備後国大田荘桑原方所務和与状(高野山文書)に「尾道浦寺社事」として「堂崎別所分并平民名以下浦寺社,同免田畠者,可為領家進止也焉」とあるこの時,大田荘領家高野山と地頭大田貞宗の和与によって堂崎別所(浄土寺とその付近)は高野山の支配が認められたその後,弘安年間には大田荘預所淵信が地頭との相論に勝訴した賞として高野山から浄土寺・曼荼羅堂両寺の別当職と「別所分山地同浜在家等」の進止権を与えられたが,嘉元4年10月にこれらは淵信から浄土寺に寄進され,当地は浄土寺の領有に帰することとなったちなみに嘉元4年10月6日付淵信法眼寄進状などには浄土寺を「高野山根本大塔領備後国尾道浦堂崎大乗律院」と記している暦応2年浄土寺に備後国利生塔の建立が決まり,貞和3年造営が始まったところ,同年5月に大田荘前預所大夫房・堤五郎らが「当寺(浄土寺)敷地尾道浦堂崎百姓等住宅」に乱入,狼藉を働いたため,工事が中断されたという貞治6年3月27日付渋川義行書状には「尾道浦堂崎在家等事,当知行地候」とあり,九州探題渋川義行が下向の途次,当地の安堵を幕府に執進した(浄土寺文書)永享11年〜文安4年の備後国大田荘年貢引付(高野山文書)に「一,米百石ノ送状一通 尾道堂崎ノ又五郎ノ船ニ上ル,永享十一年十月廿日ト在」などと見え,当地に籍を置く船が高野山領大田荘の年貢を堺港(大阪府)まで運んでいるこの引付によると堂崎籍の船は5隻知られる港湾都市尾道浦のなかで,御所崎・土堂ほどではないが,それにつぐ地位を有したらしい
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7422798
最終更新日:2009-03-01




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