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友田村(近世) 江戸期の村名小城【おぎ】郡のうち牛津【うしづ】川中流左岸部の平坦地に位置する小城藩領平吉郷に属す村名は「和名抄」に見える伴部【とも】郷の遺名であるという(牛津町史)村高は「正保国絵図」「天明村々目録」ではともに403石余,「天保郷帳」では417石余「旧高旧領」には見えない享和元年写の御領中郡村附には「牛津本町ノ西南ニ当ル,郡次在之跡ヲ云」とある文化11年の小城郡里郷之図には37町9反7畝・342石7斗6升7合と付記し,壱之井樋筋掛の村で,西端の牛津川に友田井樋を設けている天保6年の小城郡里四郷絵図によると,集落は北の友田宿と南の友田満江に大きく分かれ,友田満江は環濠集落35戸・175人との紙片も貼付される黄檗宗輪王庵がある「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ともに牛津町の枝村として見える「明治11年戸口帳」によれば,牛津町のうちに「友田分」と見え,戸数37・人口156なお,「小城郡村誌」によれば,明治4年牛津本町・同新町・友田村・定原村が合併して牛津町となったという |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
友田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
友田村(近世) 江戸期~明治9年の村名玉名郡のうち友田川中流右岸の丘陵上に位置する熊本藩領村高は「旧高旧領」598石余慶長11年の上村検地帳(県立図書館蔵文書)の表紙に異筆で当村など7か村が書き加えられており,また元禄国絵図(永青文庫)では「上村の内友田村」とあり,当村は上村から分村したことを示している宝暦年間の知行人は藪久・荒瀬・財津・岡田・高瀬・宇野・白木・天草の8氏(草村家文書/岱明町地方史)天保15年の坂下手永略反別手鑑帳(多田隈文書)では,田33町7反余・畑14町8反余,竈数80・人数297,馬54「肥後国誌」によれば,上村のうちと見え,坂下手永に属し,高588石余,小村には陣村・下林村が記され,大明神社・満福寺跡(禅宗,現観音堂)を記す陣村には陣屋敷があり,濠が残る熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属同年満村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
友田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」