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「中町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

中町(近世~近代)


江戸期~昭和40年の町名江戸期は福山城下の町人屋敷地福山城の南東,東は藺町,北は神島【かしま】町,南は大工町,西は医者町町名の由来は,神島町と大工町に挟まれてい...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7423041]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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中町(近世~近代)

江戸期~現在の町名昭和32年からは1~2丁目がある江戸期は延岡城下7町の1町五ケ瀬川に沿って東西に走る3つの町の1つで,延岡城の東側に位置し,西に城の大手門があり,北は北町,南は南町に接する慶長8年延岡城の築城と同時に造営された(延陵世鑑)町の規模は,東西長129間・道幅2間,ほかに中町横町として南北長48間・道幅1間の町並みがあった(延岡城/日向郷土史料集6)町役人として別当・乙名などが置かれていた延享4年頃の「延岡町中竈数人高寺医師酒屋並牛寄帳」(明治大学蔵内藤家文書)によれば,本竈店借共117軒,男女合計420人,寺1(照源寺),医師5人(白瀬道順・貝春湖・同玄・寺尾良長・白石立敬),酒屋4軒(かぎ屋源四郎・井筒屋治兵衛・渡辺金治・満石新七)とある医師・酒屋の多いのが目立つが,このうち医師白瀬道順は藩の学問所である学寮の講師で,酒屋満石新七は町年寄の1人であった幕末の国学者樋口種実も中町の商家出身である延享4年の「当町中指出帳」(同前)によれば,当町には城下7町を統轄する町年寄の満石新七・渡辺源太郎・鈴木長衛門の3人がおり,いずれも有馬氏が藩主の時代から苗字帯刀を許され,また満石,渡辺は5人扶持,鈴木は3人扶持を与えられた別当白瀬専次郎は出北村に給地10石をもち,牧野氏が藩主の時代から苗字が許され,乙名源四郎・又三郎は町役御免とあるさらに直附役薩摩屋又七は赤米10俵を給され,掛屋柳屋勘兵衛は赤米5俵の給付で差上銀として225匁を上納している町内の人口は,文政11年に443人,弘化4年に370人,文久元年に442人,慶応元年に397人(御領分宗門人別勘定帳/明治大学蔵内藤家文書)「県史蹟調査」7によれば,照源寺は浄土真宗本願寺末で本尊は阿弥陀如来,天正年間に釈正西草庵の創立とある明治5年の学制施行により第5大区第26番中学区に属した同12年4月28日に当地を調査した「日向地誌」には,中町は岡富村の字地の1つとして見え,「南町ノ北ニ接ス,街衢東西ニ達ス,人家百二十七戸」と記されている同15年1月28~29日に中町からの出火により南町・中町のほとんどが焼失し,北町も20戸ほどを残して焼けるという大火となった同21年の戸数90・人口564,反別は畑4畝余・宅地2町余の合計2町余,諸税および町村費の納入額は国税213円余・地方税185円余・町村費53円余(郡行政/県古公文書)明治22年延岡町,昭和8年からは延岡市に所属明治22年その通称地名となり,昭和5年からは町名となる同32年一部が中央通1~3丁目・北町1~2丁目・東本小路となり,同時に南町の一部を編入

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

中町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は加賀国石川郡松任【まつとう】町のうち明治5年石川県に所属同22年松任町,昭和45年からは松任市の町名天明5年の町絵図には当町の名が見え,寛政4年の書上げでは本町通7町246軒のうちに入り,早くから町方の拝領地であった(松任町史)寛永年間,町年寄油屋又兵衛が中村用水の分流西川で,水車を利用した菜種油の製造に成功し,以後,車屋と称し地内の西川沿いに居住したそのため西川道路は車屋小路,さらに鍛治町北側へ続く小路は水車道と呼ばれた(同前)化政期ごろの三宅橘園は車屋出身の儒者(新松任町史)正保元年,藩主の宿所および鷹狩の休憩所として,当町より鍛治町にかけて御旅屋【おたや】を設置御旅屋守は扶持高3石が与えられ,はじめ橘屋が勤め,寛文10年には角屋に交代した宝永7年,東一番町の本陣設置により,主屋を破却して廃止され,享保17年,長屋を取り払って消滅した跡地は角屋の請地となり,その地は894歩3厘,地子銀90匁2厘8毛御旅屋跡地はのち火除地となったという御旅屋の北側には大聖寺藩主の本陣が設置された(松任町史)地内には高札場があり,明治初年に至って撤去文久年間の宿絵図では町役所があり(続松任町史),明治6年には戸長役場と邏卒屯所が設置された(松任町誌)同屯所は同15年松任警察署と改称し,昭和9年古城町へ移転明治11年明治天皇行幸に際し行在所を新築同32年松任銀行,翌33年松任吉田銀行創業(松任町史)文久3年の戸数70,明治22年の戸数83・人口403,昭和10年の戸数81・人口399,同29年の戸数97・人口467明治12年の宅地2町4反9畝15歩,持主57名(同前)松任四ケ寺の1つ真宗大谷派聖興寺は,明応4年徳光村に明源によって創建され,徳光寺と称したが,文禄4年改称し,慶長6年宮保村へ移転し,さらに慶安元年現在地に移転と伝える(同前)この寺は安永4年長浜大通寺の乗正の入寺以来,由緒の寺として重きをなすまた境内には千代尼塚がある世帯数・人口は昭和45年70・326,同50年55・254...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

中町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名江戸期は佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ佐賀城の北に位置する長崎街道が東西に通り,街道に沿って家並みが東西にのびる北は十間堀川に面し,南は八幡小路,東は米屋町,西は多布施【たふせ】町と接する「勝茂公譜考補」には「天正十九年蠣久ヨリ佐嘉へ町御引キ移シノ時,六座町・伊勢屋町・中町・白山町ヲ始メニ御引キナサレ,其後段々諸町立ツ」とあり,慶長13年の城下町割り以前から町づくりが行われていた古い町の1つである家数は,承応3年佐賀城廻之絵図では92,元文5年屋敷帳では84嘉永7年の当町の竈帳は1冊分が欠如しているため全体の数は不明だが,残存分のみで記すと,総竈数114(明家3),人数555(男285・女270),身分別竈数は手明鑓1・家来6・徒士7・中小姓2・足軽31・職人2・被官19・その他の有姓者9・町人34,とくに多い職種の竈数は日傭取11・大工8同年の竈数を宗派別にみると,一向宗44・禅宗31・浄土宗24・法華宗13・天台宗1木材を取り扱う職業の人が多かったためか火災が多く,元禄16年には当町より出火,米屋町まで100余軒が焼失する大火があった(新佐賀市史2)そのため,町民は火災予防に留意し,天保10年以来町民の代表が八天社(現在の藤津郡塩田町五町田)に参詣して火除けの札を町内に配布する行事が現在に至るまで続けられている(八天社祭御祭典記録)幕末の佐賀の代表的蘭医でのち藩の医学校好生館の教導方に任じられた山村(金武)良哲は当町で開業し,その屋敷の一部も現存している「旧高旧領」では高32石余とある「明治7年取調帳」では枝村に米屋町・多布施【たふせ】町がある「明治11年戸口帳」によれば,戸数219・人口865明治22年佐賀市に所属昭和44年佐賀市八幡小路・白山1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

中町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名江戸期は広島城下中通組に属す「なかのちょう」とも称した広島城の南方,西塔川と平田屋川の間の横町北は西国街道の通る播磨屋町,西は西魚屋町筋に続く町名の由来は不詳だが,中通組の中央部という意か寛永2年の家数改には中町の名は見えず,寛永年間広島城下絵図では町の北側は浄土宗昌清院・真宗東派円証寺の2か寺,南側は武家屋敷南隣りの武家屋敷地に戒善寺中ノ丁があるため両者は混同され,当町を戒善寺中ノ丁と称することもあった明暦3年中通組の大火ののち,両寺はそれぞれ新川場町下(東寺町)・白神六町目に移転(知新集)当町は火災のあと出来たものと思われ,同4年作成の明暦4年の切絵図には小間数133間余,家数20うち小瀬検校ほかの拝領家4・茶売3,ほかに紺屋・筆屋・革屋など天和3年の切絵図では小間数133間余,家数19うち医師3,御役者多門・象眼屋・紺屋・茶屋・塗師・大工各1など御役者多門は表19間,中に2間の通りのある建物で,浅野綱晟のとき(寛文12年~延宝元年)建設能役者長谷川百十郎・長命彦之丞・金春市左衛門・鈴木半七が住んだその後幕末まで家は続き,長命家では舞台まであったというまた天明5年当町の世並屋清右衛門は喜多流謡曲に秀で,謡地頭を命ぜられ,しばしば城中に召し出された(新修広島市史)「知新集」によれば町間数2町32間余,家数27・竈数82(本竈16・借竈66)・人数324うち桶屋・指物師各3,本道医・研職・大工・畳刺・塗物細工・傘細工・綿打各2,陰陽師・鑓細工・鉄砲台師・柄巻師・紺屋・仕立物師・筆結各1明治11年広島区,同22年広島市の町名となる同33年の広島繁昌記所載の商店は5軒うち旅館2大正6年の戸数104・人口405,昭和26年の世帯数66・人口269同40年袋町・本通となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

中町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は米子城の武家地の1つ江戸中期の絵図伯州米子之図に「中ノ町」と見える米子城下では外濠の内側にある侍屋敷を「ちょう」と呼び,外濠の外側に並ぶ町人地は「まち」と呼んだので,江戸期~明治期には「なかのちょう」と呼んだ明治5年の「鳥取県管内郡村名」でも「なかのちょう」とあるいつ頃から「ちょう」を「まち」と称するようになったかは不明城下の内濠と外濠(旧加茂川)に挾まれた地域に位置し,東西に伸びる町名の由来は武家地の中央に位置することにちなむと考えられる東は東町,西は西町と接する享保5年の絵図湊山金城米子新府では戸田氏・林氏・三村氏などの屋敷があるが,陸田【はたけ】も目立ち,伯州米子之図でも空地が多い明治維新後には没落した武家屋敷跡も農地となった明治初年の戸数5・人口21(県戸口帳)明治21年の戸数は雑業6戸のみで,地方税1円余・町費4円余・申合わせ費4円余を納めた(米子市史)同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属明治21~37年まで角盤高等小学校があった明治44年~大正2年にかけ,幅員4間の市道中央線(東倉吉町―中町―久米町)が改修大正4年外濠沿いの五十人町の一部を合併同6年町役場庁舎が建設された昭和4年市役所が焼失し,同5年新庁舎完成赤レンガの3階建で,当時山陰一の美観といわれた昭和3年より米子駅―市役所前―皆生【かいけ】まで米子電車軌道が開通,同14年まで存続した昭和6年から市役所前では産地直売の農会夜市が開催されにぎわった第2次大戦末期市役所付近の強制疎開戸数居宅34・その他9同39~45年に市役所前の国道9号の拡幅工事が実施された世帯数・人口は,大正12年135・512,昭和30年117・476,同40年107・337,同50年72・223...

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中町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治9~22年は西尾を冠称江戸期は西尾城下の1町西尾城の正面玄関である大手黒門と西尾城下町総構えの正門である追羽門を結ぶ南北一直線の通りが中町通りで,その通りの両側に町家が軒を並べる西尾城総構えの中央に位置し,城下町の表6か町の1つ東側を肴町通り,西側を馬場町通りが平行に通る地名の由来は,往昔は市場と称し,市がたち,侍屋敷と町家との中間にある商業の中心地であったことによる(西尾町史)南隣は三の丸,西側は馬場町,北側は百石町・追羽町など隣接地に侍屋敷が多く,これらの消費生活を支える町人の町としての性格が強く,町内で日用品を充足することができた大手黒門前には西尾藩の郷宿江戸屋があった浄土宗縁心寺は慶長7年西尾城主本多氏が実父追福のため建立真宗東派聖運寺はもと真言宗で,西尾城内八幡宮六坊の1つとして宝光坊と称した嘉禎年間に甫山阿闍梨が矢作柳堂での親鸞の教化により改宗真宗東派善福寺はもと天台宗で西尾城内八幡宮六坊の1つとして東光坊と称し,良山が親鸞の導化により改宗明治7年の史料によると,104戸のうち業種は38種に及び,農業22・綿商14のほか,米・魚・青物・酒・挽粉・煙草・味噌醤油・菓子・質屋をはじめ,薬種・髪結い・湯屋・木炭・茶・銃砲弾薬などの商店が軒を並べている道路の幅員は2間で,その改修が遅れ,一方,市街地が東へ発展したため商業地としては明治中期以後急速に衰えた同13年錦丘学校と西尾学校が改組し,中町に西城学校,本町に共進学校が開校同20年西城学校は中町学校となる同22年西尾町,昭和28年からは西尾市に所属明治25年の戸数79・人口351,うち医師1・職工16・人夫50・寺3世帯数・人口は,昭和元年91・459,同45年81・325...

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中町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は黒石城下の1町黒石陣屋の東北に位置し,南は前町,北は浜町に接する町人地明暦年間,横山甚右衛門が甚右衛門派を開き,そこから分かれたという大鰐から浪岡に至る乳井通(東根小道)は陣屋西側を北上し,上町と元町の間から上町・横町を経て当町を通っている元禄7年の御国中道程之図では当町中ほどに「従是浜街道」と記される当町は造酒・呉服・米を中心とする商人町として発達した享保年間の黒石府家之図には浜町と合わせ屋敷数26が見える町内には,黒石津軽家の御用達として米穀と味噌・醤油・塩・油の製造・販売を営んだ高橋家が居住した高橋家は宝暦13年頃屋敷を新築したが,同家屋敷は切妻造妻入りで「こみせ」をもつ江戸中期の代表的な商家建築で,現在国の指定重要文化財とされているまた町内にはほかにも軒を張り出した「こみせ」を保存した古い形式の商家が並んでいる文化3年の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土志)では横町・浜町・株梗木横【ぐみのきよこ】町を統轄する中町組を組織していた明治初年~明治22年は黒石を冠称する場合もあった明治初年の「国誌」によれば,町の規模は長さ2町12間・幅3間1尺,また当町のほどから東の裡町(裏町)に通じる下裡町之小路は長さ45間・幅1間3尺,戸数48(うち下裡町之小路1)同17年の戸数53・人口272(烏城志)同22年黒石町,昭和29年からは黒石市に所属明治23年の当町の規模は,東西1町5間・南北2町22間,家屋数32,倉庫26戸数・人口は,同28年47・288,大正元年58・308昭和50年の人口162,同55年の人口144,就業人口は第1次産業1・第2次産業11・第3次産業59(黒石市の統計)...

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中町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名中ノ町・仲之町とも書く江戸期は宇和島藩の宇和島城下の町名神田【じんでん】川右岸,城下の東南部に位置する北西の広小路【ひろこうじ】,南東の鎌原【かんばら】通との間にあり,地名もこれに由来する宇和島城下家中町の6本の通りのうち,道幅がもっとも広く,その中心にあたる天正15年戸田勝隆,文禄4年藤堂高虎,慶長13年富田信高の入部とその支配の時代に整備され,元和元年の伊達秀宗の入部に引き継がれた家中町の1つ正徳2年,家老桜田監物屋敷の裏長屋から出火し,家中町・足軽屋敷・寺社・町家等230軒余を焼く大火となったこの時当町に横丁がなく困り,町の南部に蛤【はまぐり】横丁がつけられ,鎌原通と連絡したこれによって,当町は3区に分かれた上級武士の侍屋敷が立ちならび,安永5年の城下絵図によれば約30軒の侍屋敷が記されている明治18~22年宇和島を冠称同22年宇和島町の大字,大正10年からは宇和島市の町名となる明治期以降静かな住宅街で,昭和4年の「うわじま」によっても,商家は質屋を含めて2軒を数えるのみである大正13年桐田製糸工場が創業第2次大戦頃まで柔・剣道場の武徳殿があった大正6年市立宇和島商業学校が丸之内から当町に移転し,大正14年には天神町へ移った大正12年の同校の規模は,学級数5,生徒数222昭和37年の世帯154・人口469同41年北は広小路,南は京町となる...

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中町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は沼田城下町の1町沼田城の南に位置し,東の上之町,西の下之町とともに城下の本町にあたる永禄3年沼田の領主沼田万鬼斎顕泰の時に本町が割り立てられ,その後慶長17年真田信幸が再度材木町・鍛冶町とともに本町の町割りを行ったという(沼田町史)本町が上之町・中町・下之町に区分されたのは,いつ頃かはっきりしない天和2年の沼田町図(矢島家文書)には3か町に区分されている同町図によれば戸数37,下之町お馬出し通りと坊新田町の南にそれぞれ木戸が設けられているまた地内北側には名主伝左衛門・同勘左衛門・同与次右衛門・年寄八弥,南側には検断志兵衛(か)・年寄五十左衛門の名前も見えるまた北側御馬出し角には辻番所が置かれていたらしく,その脇には高札場があったという(沼田町史)高札場のあった四つ角を札の辻とも俗称した南側の裏手に須賀神社がある同社は慶長17年真田信幸によって社殿が造営され,天王様と呼ばれて近郷の崇敬を集め,毎年8月祇園祭の大祭を行っている中町の大通りから須賀神社への小路は天王横町と称し,天王様の表参道になっている明治22年沼田町,昭和29年からは沼田市の通称町名...

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中町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は鹿児島城下下町のうち明治22年からは鹿児島市の町名北は山下町,南は呉服町に接する(県地誌)明治10年代の戸籍簿による戸数476,うち士族29・平民447,職業は無職6・不明136・農業5・雑業164・医師2・工2・大工3・石工1・左官2・仕立物2・時計師1・傘屋2・理髪2・商16・小間物2・反物9・洋物5・鰹節5・魚仲買15・生魚10・乾物6・鶏卵2・紅1・鬢附2・三味線1・挑灯2・陶器1・金物3・文具2・紙3・仏道具1・下駄5・煙草2・書籍3・桐油合羽1・油屋1・古着2・古物1・古金道具2・薬4・豆腐2・印判2・砂糖5・附揚1・蕎麦屋3・煮売2・料理仕出4・料理屋3・芸妓1・湯屋1・旅籠屋4・質屋2・菓子6・果物3・焼酎4・酒類2(鹿児島市史)明治期は2銭9厘と別称されて市民に親しまれ,商店街がにぎわいを呈し,藤武・黒松・山形屋商店が店舗を拡張し,大きな旅館や料理屋ができて,商業の中心となった明治41年の戸数207・人口947世帯数・人口は,大正11年160世帯・1,243人,昭和10年155世帯・1,292人...

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中町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は明石城下の1町明治初年~明治22年は明石を冠称東本町・西本町と並び城下町の頭町元和4年小笠原忠政の明石築城の際に成立した町で,成立当初は信濃町と呼ばれていたが,明石藩主が大久保季任のとき中町と改称した(明石市史)中町の町名は,東樽屋町と西本町との間にあった町のためそう呼ばれたという(明石三十年史)享保6年改によれば,役門21軒,家数36(本家20・借家16),建家表地口147間,人数168,中町の裏の南浜側の雁行を渡海町といい,寛永5年頃できたというそのほか町内には,筆屋町があった(金波斜陽)延宝6年明石惣町の総代役として大年寄が2名置かれたが,その1人が当町の大屋佐太郎で,その後も名村家など当町の有力者が交替で勤めた(明石市中記)町内には医師として野口立伯が在住していた(播州明石記録)明治22年明石町,大正8年からは明石市に所属昭和20年7月7日の空襲により61戸が全焼(明石市史)同39年一部が材木町・樽屋町となり,残余は同47年本町1~2丁目となる...

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西暦2024年(平成36年)
424曜日
新着時事用語
リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
┗自筆の遺言書を法務局で保管してくれる制度のこと。2018年に

アポ電詐欺・強盗
┗ 高齢者を狙った詐欺犯罪の手法。オレオレ詐欺の一種とされる場

高輪ゲートウェイ
┗JR東日本が2020年に新設する駅名。田町駅と品川駅の間、東

不用品回収
┗ 部屋の片付けや老前整理・生前整理・遺品整理等で、業者が家庭

所有者不明土地
┗ 永年相続登記(不動産の名義変更)が行われずに、登記簿上で所

遺言控除
┗ 有効な遺言書による相続となった場合、相続税の基礎控除額に上

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今日の記念日

『日本ダービー記念日、植物学の日』

1932(昭和11)年、目黒競馬場で第1回の日本ダービー(東京優駿競争)が開催されました。イギリスのダービーステークスにならって企画された物で、当時の出走馬は19頭、優勝したのは1番人気のワカタカでした。

今日の暦

月齢:15

月齢:15
月名(旧歴日):望月/十五夜/天満月(あまみつつき)

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