ケータイ辞書JLogosロゴ 長和荘(中世)


広島県>福山市

 平安末期〜室町期に見える荘園名。備後国沼隈郡のうち。安元2年2月日付八条院所領目録に見える(内閣文庫蔵山科家古文書)。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)によれば,鳥羽上皇皇后美福門院の御願寺歓喜光院に藤原惟方が寄進したもので,美福門院死後は息女八条院が伝領,その後同女院領荘園群を構成する歓喜光院領の1つとして伝えられた。なお昭慶門院御領目録には,歓喜光院領とともに鳥羽上皇と深い関わりをもつ民部卿藤原顕頼建立の安楽寿院末寺興善院領として記されている。当時の領家は悲田院で,推定鎌倉後期の長和荘領家地頭所務和与状(田総文書)に安居院悲田院領とある。地頭は備後守護長井氏一族で,長井時広の六男泰経は長和五郎と称している(尊卑分脈)。文永10年8月12日には泰経の兄泰茂が長和荘地頭職を和与によって二分している(田総文書)。この和与の内容は不明だが,のちの史料から東方地頭職は甥の田総重広に分与し,西方地頭職は泰茂の手元にとどめ置いたものと思われる。長和荘領家地頭所務和与状は東・西二分後の両地頭と領家安居院悲田院との間に結ばれたもので,荘の検断については領家分田畑・地頭分田畠内在家を除き双方半分の沙汰とし,百姓逃死亡ならびに罪科跡の処置についてはすでに地頭方が収公し年貢課役の沙汰を行っていれば領家はこれを不問にするが,今後は双方の談合で作人を付すこととし,地頭収公分も年貢課役の対捍が2か年に及べばあらためて領家方の作人に充てることとしている。また山野河海は地頭方の管領としており,領家側の妥協のほどがわかる。重広に分与されたらしい東方地頭職は,田総荘・小童保地頭職とともに田総氏本領として時継以下重継・直千・能里・広里・時里・豊里・新次郎嫡子と伝領。この間南北朝期には田総氏の本拠から遠いこともあって宮入道道仙父子の押領などがあったようである(同前)。一方の西方地頭職は,泰茂から第二子で長井福原氏の祖頼秀に譲られ,元徳元年12月22日には道可(頼秀)から嫡子弾正蔵人貞頼に譲渡されている(毛利家文書)。なお,この時西方地頭職はさらに二分されており,貞頼に譲られたのは北方と称するものであったらしい。こののち貞和5年8月25日貞頼から嫡子頼元(のちの貞広)に四分一地頭職が譲渡され(閥閲録8),実子に恵まれなかった貞広は応安4年毛利広世と父子契約を結び後事を託している(毛利家文書)。広世は最初長井氏を称したが,安芸国内部荘福原村の地頭職を譲られて以後は福原氏を名乗り(閥閲録8),その行動は毛利氏一族としてのものになり,西方地頭職領掌の事実もうかがえなくなってくる。なお領家悲田院の支配は室町期までつづいたようで,年貢請負代官渡辺氏が下向している(天文3年6月7日渡辺先祖覚書)。荘域は福山市瀬戸町長和の福井八幡が長和・地頭分・佐波・神島【かしま】・草戸・水呑・田尻の総氏神であったことからその一帯に比定される。なお現在発掘調査中の草戸千軒町遺跡は長和荘の倉敷地または荘内市場と考えられる。また的場城跡・片山城跡・石淵城跡・栗田城跡などがある。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423063
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ