ケータイ辞書JLogosロゴ 西町(近世〜近代)


広島県>宮島町

江戸期〜現在の通称地名厳島神社西方,塔の岡から紅葉谷・大元浦にかけての町の総称弥山から厳島神社の鎮座地御笠浜に流れ出ている紅葉谷川(御綾川・御霊川・御手洗川ともいう)・白糸川の扇状地に形成された東町との対比で西町と呼ばれ,中西町・大西町などの町割がされているすでに南北朝期には厳島神社の内侍・社家・供僧が島内居住をはじめ,続いて神社に関係する職人・商人が厳島神社の西側,のちの西町に常住するようになった厳島神社の殿舎は,仁安3年11月日の伊都岐島社神主佐伯景弘解文(史料通信叢誌第壱編厳島誌所収文書)にその様子がうかがえ,これらの建物はすべて西町の地域に存在していたが,人の常住する家屋は見られない正安2年4月15日の伊都岐島社未造営殿舎造営料言上状案に,御手洗川に橋2か所,白糸川に橋3か所,河堰3町余の工事計画が記され,神社の焼失後の造営工事に伴い町域の整備がはかられているこうして町域が整うにつれ,対岸から祭事のたびに渡海していた内侍などが島内に居を移したと推測され,厳島社の修理造営にあたる工人も組織化され,勧進沙弥衆とともに大願寺の下に統率された大内氏の支配下,天文10年3月22日の厳島屋敷打渡注文によると,大内氏は35か所の屋敷を大願寺に寄進しているこれに,滝少路・中江少路・中西少路・大西・南少路などのちの西町に属する屋敷地が記されている天正3年11月16日の毛利輝元安堵状に「従寺家裁判之屋敷,島中東西三十五箇所之内四ケ所」と見え,島中の町屋敷を東西に分けている(大願寺文書)文禄4年の厳島寺社穂田元清等抱屋敷町割書立(野坂文書)に,屋敷の所在とその分有状況が記され,大願寺・竹林内侍・徳寿内侍などにより分有された186か所の屋敷が認められるこのように,天文から文禄にかけて町割が形成され,その町場に東西の区分ができていった慶長5年福島正則の広島移封に伴い,島内の山野は藩有とされ,家屋敷へ地子銭が課せられた町方支配が整えられ,町の境界が明確にされ,それぞれの町政を担当する町年寄が選任された慶長13年の厳島神社社家内侍祝者屋敷付立(厳島野坂文書)によると,屋敷63うち中江町25・滝町12・久保町3・中西町8・大西町3・南町12東町に比べると,社家・内侍・供僧の屋敷が多く,天明町絵図(吉田家文書)に西町屋敷329うち社家・寺庵など84・町人屋敷206・抱屋敷39とある「芸藩通志」には,戸数238,人数1,310うち社人201・僧50江戸期の当町は南町・滝町・中江町・久保町・中西町・大西町・神馬屋町の7町からなる内侍の屋敷が慶長13年26軒あったが,元禄14年とされる大願寺絵図以後の史料には記されていない神仏分離・版籍奉還などにより滝町を中心に各町にあった供僧寺院は廃寺となり,大聖院・大願寺を残すのみ,社家も多くは退転した明治22年厳島町,昭和25年からは宮島町の通称地名となる町名は変わっていないが,大西町・中西町は町内がいくつかに分かれて現在に至っている
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423150
最終更新日:2009-03-01




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