ケータイ辞書JLogosロゴ 入野郷(中世)


広島県>河内町

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。安芸国豊田郡のうち。建武3年3月8日の桃井義盛下文によれば,足利方の内藤泰廉が「入野北方国衙郷司職」を安芸国大将桃井義盛から預けられている(閥閲録58)。観応2年4月9日の将軍家御教書では,「入野郷内早田方・貞宗方田畠屋敷」を西条弥六衛門入道・大多和左衛門太郎らの押妨を排除して武石胤泰に渡すよう命じ(平賀家文書),文和2年12月の入野城合戦では竹原小早川実義らが足利義詮の感状を受けている(小早川家文書)。一方,南朝方の熊谷直平も正平6年9月28日の常陸親王令旨で「入野郷北方内重弘女子分并金丸方」を預けられており,双方の争奪地であった(熊谷家文書)。文和3年9月12日の足利尊氏下文では「入野郷内〈大多和八郎太郎入道・小池大輔房等〉跡」が平賀貞宗に宛行われ,至徳2年11月15日平賀貞宗譲状で「入野郷半分〈号南方,但貞宗名,除一期之間〉」を子息弘章に,嘉慶2年2月9日同譲状で「入野郷北方等地頭職」を子息時宗に譲っている(平賀家文書)。また安芸国は東寺永代修造国であったが,至徳2年10月14日の室町将軍家御教書では入野郷国衙分を小早川春平が押領しているとし,同4年7月21日の室町将軍家御教書では入野郷南方を平賀弘章が,同北方を平賀直宗が押領しているとする(東寺百合文書)。応永2年4月10日の足利義満安堵状では,入野郷北方地頭職が正式に時宗に安堵され,同5年5月19日には,南方も旧領主三浦大多和氏を退けて弘章に安堵されている。やがて弘章の孫頼宗は南北ともに領掌し,応永29年12月12日足利義持安堵御判御教書で「高屋入野惣領職〈但,除大幢庵領并慶中和尚分〉」を安堵され,永享10年9月29日には足利義教によって入野南北郷地頭職安堵とともに臨時課役段銭人夫以下を免除され,守護使不入を認められ,頼宗の子孫が以後領掌していく。文禄4年9月21日の平賀元相・市松連署起請文案や同年10月24日の平賀氏知行付立案によると,入野北方・南方で1,458石余,田231町余・畠42町余,家数159であった(平賀家文書)。小野篁伝説を伝える竹林寺は,その本堂に高屋・入野の大工が天文14年に造立した旨の墨書を有す。「芸藩通志」は,城跡に松岳城・滝山城・竜王城・新開城・右京山城を記す。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423172
最終更新日:2009-03-01




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