ケータイ辞書JLogosロゴ 廿日市町(近代)


広島県>廿日市市

 明治22年〜昭和63年の佐伯郡の自治体名。大字は編成せず。戸数・人口は,明治22年646・2,827,同24年667・2,843。板材木・薪炭類・酒類の製造販売を主とし,特産に挽物による玩具類の製造があった。農業はほとんど行われず,米・麦は隣村の平良【へら】・宮内・原・観音村から移入し,蔬菜類は草津・古田村から求めた。同25年に修築された廿日市港からは焼酎・木炭・薪板類を積み出し,石炭・石油・甘藷などを移入した。同30年山陽鉄道(現国鉄山陽本線)広島〜徳山間開通,廿日市駅を下平良に開設,大正13年広島瓦斯電軌(現広島電鉄)宮島線草津〜廿日市間開通,広電廿日市駅を下平良に開設。交通網の発達に伴い当地は広島市の経済圏に包摂されて衰退した。大正2年電灯がつく。同4年郡立工業徒弟学校(現廿日市高校)が開校し,地場産業である木工業の発展が図られた。同7年大手酒造会社が創業し,近代的な醸造業が成立。同年の米騒動に際し,町内数か所に群集が集まり大鐘をつく騒ぎがあった。明治32年頃から自転車,大正9年頃から自動車の使用が始まり,同10年からは広島〜宮島口間に定期乗合自動車が開通して地内を通った。同15年郡役所が廃された。昭和3年マキノバスが廿日市―津田―浅原―本郷間を運行した。同7年観光道路(現国道2号)開通,同11年舗装が行われた。同31年の世帯数1,359・人口5,191。同31年平良・宮内・原・地御前の4か村を合併し,廿日市・上平良・下平良・宮内・原・地御前の6大字を編成。同32年観音村の一部を合併し,佐方を加え7大字となる。同52〜61年にかけて住居表示実施などにより53町を起立し,53町7大字となる。昭和60年大野町字福面と地御前が境界変更。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423301
最終更新日:2009-03-01




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