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「東町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

東町(近世~近代)


江戸期~現在の町名昭和40年からは1~3丁目がある江戸期は福山城下の武家屋敷地福山城および町人町の東,西は胡町・大黒町・今町・笠岡町・新町・福徳町に接するはじめ...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7423405]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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東町(近世~近代)

江戸期~現在の通称地名厳島神社東方の町場の総称町場の成立以前は,有浦の入江が深く入り,山塊から流れ出る川や海流により運ばれた土砂によって埋め立てられたと考えられる厳島神社周辺には,すでに中世に町並みが形成され,戦国期にはその町場に東西の区分がなされていた天文21年の厳島掟に「当島見世屋敷事,当町人之外不可存知事」とあり,諸国の商人が屋敷を買うことを禁止しているまた厳島合戦をひかえ,毛利氏は島内の町人を人質として捕らえたともいわれ,町人の住む町が形成されていたことがわかる(吉川家中並寺社文書)これらの町人は,惣中と呼ばれ(巻子本厳島文書),町役のもとで自治的な性格をもって町政の運営にあたっていたといわれる天文10年3月22日の厳島屋敷打渡注文(大願寺文書)に大町・坂本,慶長2年の厳島屋敷付立(野坂文書)に存光寺町・岡町などが見える天正3年11月16日の毛利輝元安堵状に「従寺家裁判之屋敷,島中東西三十五箇所之内四ケ所」と見え,島中の町屋敷を東西に分けている(大願寺文書)有浦は船着場としての役割を果たし周辺に町家が建ち,山麓に寺院が創建されると存光寺町・西蓮町などの門前町が形成された近世に有浦が埋め立てられて土地造成が行われ,浜之町・北之町・午王前町などができた寛永2年広島城下材木町の遊郭が,存光寺町の北側一帯に移され新町(大坂町ともいう)ができた寛永年間には,大町・岡町・午王前町・中間町・中之町・魚之棚町・北之町・後町・西蓮町・存光寺町・浜之町・新町の12町と要害山北側の小浦で構成され,町役人を置いた町の様子は,元禄2年の貝原益軒の「厳島景勝図并記事」や元禄15年の「厳島道芝記」などに描かれている「芸藩通志」には,西蓮奥町・脇町・幸町など見えるが,町分けや名称変更によるもの当町の戸数は,延享3年396(東町別家数),天明3年394(町絵図),文化元年も394(東町軒別間尺書)人数は「芸藩通志」2,424うち僧15明治維新以降,神仏分離による排仏,新町遊郭の退転などにより,宮島の様相は大きく変化し観光地としての性格を強くした明治22年厳島町,昭和25年からは宮島町の通称地名となる明治26年に大阪・下関を結ぶ瀬戸内航路の定期船が寄港するようになり,翌年には山陽鉄道(現国鉄山陽本線)が広島まで開通するなど,交通網が整備され来島者の増加をみるようになった幸町・浜之町に定期船の取次場が設けられ,中小浦の西端から対岸の鉄道と連絡する船が発着するようになり,東町は宮島の玄関口となり商家・旅館がふえた有浦は再び順次埋め立てられ,幸町浜・中之町浜などができた

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は米子城の武家地の1つ江戸中期の絵図伯州米子之図に町名が見える内濠と外濠(旧加茂川)に挾まれた武家屋敷地の西部に位置する町名の由来もこれに基づくと思われる幅10~12間の外濠をへだてて,旧山陰道に沿う道笑・日野・茶町などの商人町があり,それぞれ横町・福厳院・牧野の各橋で連絡していた北は中町と接する荒尾家臣団の屋敷地が多い西町に対し,当町には鳥取藩士の屋敷が多く,小原・河端・沢・鈴木家などがあった明治期には中町との間に広く水田が残されていたが,それは慶長年間中村氏が転封した後の空屋敷跡31町歩余を紺屋町大寺屋(船越家)が開墾したものである外濠が屈曲する付近に榎の大木があり,その下に小祠を祀る榎神社があった(伯州米子之図)明治初年の戸数32・人口159(県戸口帳)同16年堀端町にあった明道小学校の校舎が当地に新築され,移転してきたこの頃,東町第一連合戸長役場が設置される同21年の戸数は農業5戸・商業4戸・雑業25戸の計34戸,地方税12円余・町費21円余・申合わせ費1円を納めた(米子市史)同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属明治22年の町制施行に際し,東町第一連合戸長役場を臨時に町役場とした同43年米子駅~米子港を結ぶ記念道路が通過明治期から昭和期にかけて本通り・元町通り商店街に隣接した住宅地域を構成昭和38年スーパーが開店,日ノ丸バスターミナルも兼ね,同54年からデパートになった昭和50年には市立総合研修センターが創立世帯数・人口は,大正12年146・602,昭和30年282・1,129,同40年274・952,同50年189・550...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津城下の1町町人地城の北側,城下町の北東部に位置し,北は北町に接する古くは,南組・中組・北組からなっていたが,寛永年間から寛文年間の間に北組が北町として分離した人数は,寛文5年610(男308・女302),同6年599(男293・女306),同9年394(男200・女194)課役は,伝馬役として本役73軒を勤め,ほかに本陣宿泊時に人足3人を出すことなどがある(明治3年町別課役取調書要領/津市史)藩の秤座があり,はじめ江戸の守随家支族,のちに小谷家が経営にあたった氏神は津観音寺であったが,明治4年神仏分離からは津八幡神社の氏子となる戸数は,同5年83,同17年84同22年津市に所属大正9年頃国道筋が東町通りから新立町・宝禄町・西来寺町通りに変わり,東町通りは裏道となった昭和20年7月の空襲で当町は焼失第2次大戦後復興して,町の北部は会社・事務所など,南部は大門商店街に隣接する商店・飲食店などが並ぶ昭和29年の世帯数78,以後の世帯数・人口は,同36年81・385,同44年73・228同47年一部が大門となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名下魚棚通油小路東入の町寛永14年洛中絵図をはじめとする中井家系の筆描絵図に「ひかし町」と見える当町がはじめ上之筋と呼ばれたことから「宝暦町鑑」は「上之筋東町」と記す(坊目誌)延享元年6月,町内北側辻子の角,富田屋平右衛門の裏借屋人佐右衛門なる者が,北七条正面付近であばれ,騒動を起こした吟味の上,今後酒など飲みあばれないようにと叱責され,家主平右衛門の許に帰されている(諸式留帳)江戸期,公儀軒役は11軒役を勤めていたまた,当町は七条出屋敷六町組に属したが,組全体として西本願寺に対し1年に550文の御挑燈料志を負担していた(寺内歳時記)江戸期は下古京川西拾六町組新シ町七条出屋敷六町組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】21番組,同5年第29区と改称,同25年第29学区に編成明治12年下京区東町,同22年京都市下京区東町となり現在に至る大正7年の世帯数23・人口85,昭和40年の世帯数23・人口77人口増減率(昭和40~50年)24.7%減...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名大正期からは1~3丁目がある江戸期は西条藩の城下西条町の町名寛永13年一柳直重が西条領に入部すると直ちに建設に着手した陣屋町の中央部にある町名は本町の東にあることによる東は朔日市【ついたち】・大町の両村,南は大町・神拝【かんばい】の両村,西は横町,北は大師町・朔日市に接する元禄14年町の東に新地が開発され,市街地69間が東へ延長された西条の馬市は当町から起こったので馬之町ともよばれた「新居郡地誌」によれば,明治9年西の横町,東の新地を当町に編入し,延長4町18間・幅2間5尺,支街が2条あった明治18~22年西条を冠称同22年西条町の大字となる大正期に,明治9年に当町に編入した横町のうち上横町を東町1丁目,もとの東町を東町2丁目,当時新地と称した地域を東町3丁目と呼ぶようになった葵ロードとよばれるアーケード商店街が東西に発達し,紺屋町や栄町の商店街に続く昭和16年からは現行の西条市東町1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名中立売通烏丸西入の町「中立売東町」(寛永14年洛中絵図・宝暦町鑑),また単に「東町」とよばれた(天明6年洛中洛外大図)町名は中立売通の東端に位置することによる江戸期,町内には呉服所藤井長左衛門・清水平四郎らが居を構え(京羽二重),香具屋播磨(京羽二重織留),画工原近江介(京羽津根)らが住んでいたまた町内に伊予今治藩松平氏の屋敷があった(京羽二重)江戸期は禁裏六町町組の烏丸頭町十一町組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】16番組,同5年第17区と改称,同25年第13学区に編成明治12年上京区東町,同22年京都市上京区東町となり現在に至る明治21年,当町北側に上京一円を管轄する上京警察署を設置,のち明治25年中立売警察署と改称,のち下長者町通新町西入の藪之内町に移転した大正14年の世帯数14・人口56,昭和40年の世帯数9・人口41...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名一条通七本松西入の町北野社領に属し,下之森【しものもり】と称された北野社門前の地域の一画を占める寛永頃から町名が付けられたというが(府地誌),町名は「宝暦町鑑」にあらわれる下之森一帯は北野社の門前にあたるため,参詣人を相手の芸能が盛んで,小屋掛による興行が行われた明和9年には東町の住人から,下之森での狐(の見世物か)の許可を北野社に出願している(北野天満宮文書)また,下之森一帯は遊所としても繁昌した(府下遊廓由緒)明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】9番組,同5年第14区と改称,同25年第10学区に編成明治12年上京区東町,同22年京都市上京区東町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名・大字名八尾【やつお】町のうち寛永13年桐山下野村に八尾町草創の町として町立て,同時に町立てした西町とともに八尾元町と通称される元禄4年の家数は西町と合算で221(六兵衛書上/八尾町史)慶応4年の家数178・人口792(郡方人別書上帳/県史近世下)明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年下笹原【しもささはら】村の一部を編入,同年婦負【ねい】郡八尾町の現行大字となる八尾町役場が置かれた明治33年の戸数203・人口943(八尾郷土史談)昭和5年の戸数179・人口804同50年の世帯142・人口516八尾町体育館(旧八尾町役場跡)・中央公民館・町立図書館があり,八尾町の中心的存在...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~昭和43年の通称町名江戸期は蔵敷村,明治22年日吉村大字蔵敷,大正9年からは今治【いまばり】市大字蔵敷のうち今治市の市街地南東端,蒼社【そうじや】川河口に近い宝永4年蔵敷村ノ内東町屋敷改帳によると上町と下町に分かれ面積3町8反,214軒の足軽・中間屋敷があった東町通ともいい,御厩通西部,東門通と並ぶ低湿地が多く宅地化が遅れ,大正末期~昭和初期に染晒工場,第2次大戦後はタオル・撚糸工場が進出して工場地帯となった現在の枝堀町3丁目・美須賀町4丁目・東門町4丁目のあたり...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東町(近世~近代)
江戸期~現在の町名三条通岡崎広道東入の町江戸期は青蓮院領,西町・蛭子町・五軒町・中之町とともに粟田古町五町組の1つ東国街道に面した交通の枢要地洛外町続町の1つ「宝暦町鑑」は粟田焼の生産地で,錦光山という陶器師の居宅があると記す正徳4年洛外町続家数改帳による家数34(荻野家文書)明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】25番組,同5年第8区と改称,同25年第8学区に編成明治12年下京区東町,同22年京都市下京区東町,昭和4年東山区東町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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