ケータイ辞書JLogosロゴ 櫃田村(中世)


広島県>君田村

 南北朝期〜戦国期に見える村名。備後国三次【みよし】郡のうち。貞和元年12月3日の足利尊氏寄進状によると「樻田村地頭職」が,備後国利生塔に寄進されている。しかし貞治6年6月25日の足利義詮御判御教書によると,すでに暦応3年に寄進されていることが知られる。貞和2年櫃田村などの地頭職の押妨を停止する沙汰が,宮盛重と木梨親光に対し下されている。ついで観応2年には,築地六郎次郎秀国・三吉鍛冶屋弥四郎以下の押妨狼藉を止めるよう宮盛重・有田三郎左衛門尉が命ぜられている。延文元年には三吉弥七の濫妨を止めるよう細川頼之から仁木駿河守へ,康安元年には三吉掃部助の押妨を止めるよう細川頼有から仁木駿河四郎へ,貞治5年にも同様の命令が渋川義之から尾崎加賀守へ下されている。さらに貞治6年には将軍足利義詮が尾道浄土寺長老に対し,塔婆料所櫃田村地頭職などを安堵し,応安4年には今川了俊が長瀬尾張入道に対し,三吉掃部助の押領を退けるよう沙汰を下している。室町期に入り応永18年には将軍義持が塔婆料所櫃田村地頭職などを,また永享10年には義教が塔婆料所櫃田村公文職などを浄土寺に安堵している。永享3年,続いて12年には段銭以下臨時課役免除・守護使入部停止など,幕府から保護が図られており,文明16年にも,山名政豊から同課役が免除されている。同17年2月,櫃田村百姓らは浄土寺に対して起請文を提言,毛利氏ら国衆の代官請を拒否し,寺家直務を要求した。連署者33名を見ると地侍層が多く,また国人山内氏・三吉氏の一族がいることから,村落内に土豪・地侍層がその支配を展開していた様子がうかがえる。かちや藤二郎は三吉一族として櫃田村に進出していたことが知られ,また山内一族滑良氏も同様の動きをしている。そのほか,櫃田法師丸は櫃田村を在所とする土豪,法泉坊少弐は現存する法泉寺の住持である(浄土寺文書)。なお村内にはこの起請文の起請詞に挙げられた杵築神社があり,ここが百姓結合の場であったことがうかがえる。ほかに尼子方の吉田新三郎高吉の道迫山城跡,小滝弾正の三熊山城跡が残る(双三郡誌)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423436
最終更新日:2009-03-01




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