ケータイ辞書JLogosロゴ 福永(中世)


広島県>神石町

 戦国期に見える地名。備後国神石【じんせき】郡のうち。天文17年2月28日の大内義隆袖判宛行状(田総文書)によると,高尾中務大輔が知行していた「福永之内弐百貫之地」が,備北の有力国人田総左衛門尉に給されている。天文20年8月,陶晴賢が主君大内義隆を討ったのを契機に,大内氏と争っていた尼子氏が備後進出を企て,備北各地で毛利氏と合戦した。天文21年10月3日の毛利元就書状には「就福永面敵動」(閥閲録77),同年12月1日の毛利元就書状(同前152)には「福永要害」,同22年6月5日の毛利隆元書状(同前)には「福永在番」と見え,当地は毛利氏の重要な拠点となっている。また当地はもともと備後中部の中小国人層である中郡衆の支配下にあったらしく,尼子氏との戦闘が終わった天文22年5月24日の毛利元就・隆元連署書状(譜録)によると当地が中郡衆に返付されている。毛利氏支配下に入ったのちの慶長2年9月1日の毛利輝元知行宛行状(閥閲録68)によると「福永之内門田村」の35石6斗が粟屋太郎兵衛に宛行われている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423545
最終更新日:2009-03-01




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