ケータイ辞書JLogosロゴ 福永村(近世)


広島県>神石町

 江戸期〜明治22年の村名。神石郡のうち。はじめ福山藩領,元禄11年幕府領,享保2年からは豊前中津藩領。村高は,元和5年「知行帳」1,126石余,寛文11年地詰帳1,343石余,元禄12年備前検地や「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,444石余。大規模村ゆえに庄屋もしばしば複数置かれ,享和年間には東組と西組とに分かれ,明治維新当時は東福永村と西福永村と称していた。明治8年再び合併し福永村となった。西組の戸数・人数は享保2年112・611,寛政6年70・270。明治10年の戸数248・人口1,384。代官所のある小畠へ4里,上下へ3里の道程で,安永元年の村調によれば,寺1(曹洞宗恩定寺)・四ツ堂9・氏宮3(梶尾明神1・八幡宮2)・古城跡3,猟師鉄砲13,溜池3・井堰50,田90町9反・畑87町8反。明治8年田131町3反・畑83町7反。古城址泉山の東麓には中世後期の市場町に由来する中心集落呉カ垰が立地する。近世すでに小市聚をなしていたが,その戸数は10戸ばかり(明治維新当時17戸)にすぎなかった。明治4年中津県,以後深津県・小田県・岡山県を経て,同9年広島県に所属。明治7年当村に福永郵便局が設置され,その集配区域は牧・草木・高光・古川・永野の諸村にまで及んだ。同22年市制町村制施行による福永村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423546
最終更新日:2009-03-01




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