ケータイ辞書JLogosロゴ 保垣(近代)


広島県>向原町

 明治22年〜現在の大字名。はじめ有保村,昭和29年からは向原町の大字。戸数・人口は,明治22年214・1,030,同24年235・1,063。人口は,大正元年1,102,昭和10年835,同20年1,017,同40年620となり,現在さらに過疎化現象を示している。明治30年地内中央に幅4〜5mの村道を建設し,向原〜福富町間を結ぶ吉長屋向原停車場線となり,のち県道久芳向原線に昇格した。特産の和紙は,大正年間20,昭和初年7事業所と減少したが,年間1,000締を生産した。第2次大戦後は3軒となり,現在伝統はとだえた。山林の7割がマツ・クリ材で高収入源であったが,同大戦中の乱伐で裸山となり,現在はスギ・ヒノキの植林が1割程度である。昭和18年呉市の学童47名が法成寺に集団疎開。同20年吉田警察署保垣派出所廃止。同20年代前半から養豚を手がけ同53年1,500頭余を生産したが肉価暴落で廃業となる。昭和18〜55年の間は有保郵便局が設置された。同59年崖崩れで不通となっていた福富町との連絡県道が再開された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423659
最終更新日:2009-03-01




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