ケータイ辞書JLogosロゴ 三津村(中世)


広島県>安芸津町

 南北朝期〜室町期に見える村名。安芸国賀茂郡のうち。中世には隣接の木谷村・風早村とを併せた総称として三津村あるいは三津三浦といわれることが多かった。三津三浦の称は幕府の安堵状などによく使用されている。建武5年正月,安芸国世能荒山荘地頭阿曽沼氏一族の阿曽沼下野権守師綱が伯耆国矢送荘の替地として足利尊氏から「安芸国三津村地頭職」を宛行われている(山口県文書館所蔵文書)。その後,師綱は没落し,正平13年10月には竹原小早川実義が軍忠の賞として「安芸国三津村〈阿曽沼下野守跡〉」の知行安堵を足利忠冬に申請したが,実義は間もなく北朝方に転じ,延文5年,直冬党掃討のため中国地方に派遣されていた北朝方の中国管領細川頼之から「三津村地頭職」を預け置かれた。この三津村は木谷・風早村を含む3か村を指す。貞治2年3月,実義は息男義春に「三津村〈以木谷・三津・風早三ケ村号三津村〉」を譲与し,以後,当村は木谷・風早村ともども代々竹原小早川氏が領有した。至徳元年11月には義春の息男仲義が将軍足利義満から当村地頭職を預置かれ,応永5年5月には三津村・木谷村・風早村が嫡子弘景に譲与されている。弘景は応永13年3月に義満から所領を安堵されたが,その安堵御判御教書には「三津三浦地頭職」とある。この後,当村は弘景から嫡子盛景,さらに盛景子息弘景と伝領された。永享10年9月,盛景の代には当村ほかの所領の臨時課役・段銭人夫以下諸公事を免除され,守護使不入の特権を幕府から与えられ,ついで寛正4年12月にもこれらの特権を安堵されている。永正8年8月には弘景の子息弘平が「三津三浦地頭職」を将軍義稙に安堵された(小早川家文書)。また永正2年「三津村之内太郎丸半名」を小早川弘平が家臣荒谷彦二郎根吉に給与している(荒谷文書)。なお「鹿苑院殿厳島詣記」によれば「十日,またこぎ出させ給,たかはら,みつ,かさはや……かやうの浦々過させ給へり」とあり,康応元年3月,厳島参詣のため瀬戸内海を西へ航行した足利義満の乗船が三津・風早を通過した。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423826
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ