ケータイ辞書JLogosロゴ 壬生荘(中世)


広島県>千代田町

 平安末期〜室町期に見える荘園名。山県郡のうち。厳島社領。嘉応3年正月日の伊都岐島社領安芸国壬生荘立券文によれば,壬生荘は嘉応2年5月5日の後白河院庁下文と同年5月13日の安芸国司庁宣の旨に任せ,翌年正月高倉天皇とその母建春門院滋子の祈祷料として立荘された厳島社領荘園であった(新出厳島文書)。立荘の経緯は山県郡内のほかの社領荘園と同じく,山県郡の豪族凡氏一族が厳島社神主佐伯景弘を介し,平清盛へ所領寄進を行ったものとみられ,厳島社が領家,平清盛が本家と推定されている。立券文に記された四至は,「限東多治比苅田簗原堺,限南坂山峰并可部庄禰堺大須々木尾鼻,限西当社御領三角野堺,限北春木谷并志野坂川戸村訓覔郷堺」とあり,荘域は現在の山県郡千代田町壬生・川東・川西・川井・惣森・丁保余原・有田・南方・木次の地域と推定される。立券文によれば,壬生荘は総田数105町のうち見作田75町8反・年荒29町2反,畠27町5反・在家52宇・山野などからなっていた。荘内は壬生郷と有田村とからなり,条里記載がなされ,壬生郷12里・有田村5里の計17里からなっているが,坪内の耕地化率は低く,年荒部分も相当の比重を占めていた。立荘と同時に太田川河口の佐東郡桑原郷内萩原村に倉敷地が設定されている(新出厳島文書)。治承3年の作田を注進した翌年3月日の壬生荘作田内検帳目録によると,壬生郷101町7反340歩・有田村60町5反220歩の計162町3反200歩に見作田があり,立券文に比べ60町余増加している(巻子本厳島文書)。こうした見作田数の増加は,荘内の再検注によって把握されたものとみられ,厳島社の支配強化をうかがわせる。また,この目録によれば荘内の田地はすべて福光・千与末・犬同丸・吉光・友松・成富の6名からなり,福光名40町余や千与末名93町余などの巨大な名は凡氏一族の領有する名(仮名)であった。福光名が寺原荘,成富名が三角野村にもあり,これらの名は山県郡に広範に散在していた。立荘後,凡氏一族の領主権は名地頭職として位置づけられたが,治承3年11月日付の前太政大臣家政所下文によれば,非法行為により名地頭職は停止され(御判物帖),代わりに厳島社神主佐伯景弘が荘地頭職に補任されたと推定されている。「吾妻鏡」元暦元年10月12日条によれば,凡氏一族とみられる安芸国住人山方介為綱が源範頼から戦功を賞されている。為綱は,鎌倉幕府成立後,幕府から壬生荘地頭職に補任されたとみられ,その跡を山方五郎為忠が継いだが,建仁3年11月7日には為忠跡の壬生荘地頭職が小代八郎行平に宛行われた(小代文書)。このため,翌元久元年には両者間で相論が起こっている(「吾妻鏡」元久元年7月26日条)。また,承久の乱後の貞応元年4月19日には,千与末地頭職が厳島社に寄進されている(「吾妻鏡」貞応元年4月19日条)。下って,応永4年6月日の厳島社領注進状并管領斯波義将外題証判にも「壬生」と見え,室町期にも厳島社領として存続していた(巻子本厳島文書)。戦国期には,大永3年3月21日毛利元就が福原俊秋に「壬生之内一木七段」を宛行い(閥閲録67),享禄2年8月10日には元就が粟屋元国に「壬生合戦」の戦功を賞するなど(同前73),当荘域は毛利氏の支配下にあった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423935
最終更新日:2009-03-01




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