ケータイ辞書JLogosロゴ 三吉(中世)


広島県>沖美町

 戦国期に見える地名。安芸国佐西郡のうち。永禄6年7月5日の来島通康安堵状によると,伊予の来島(村上姓)通康は,能美民部卿丸(景秀か)に三吉浦を除く能美島の本領70貫200目を安堵している。来島通康は,永禄8年4月25日にも能美与三(景重)に能美島のうち5貫350文の地を安堵しており(山野井文書),能美島を本拠とする能美氏一族は,伊予河野氏の重臣で,河野水軍の領袖来島通康の被官となっていたと考えられる。弘治元年4月21日毛利元就・隆元は「三吉・こうそう(高祖)・高田・中村・沖浦百性等申通分別候」と能美左馬允・大多和就重両人宛てに通達しており(閥閲録123),永禄年間以前に能美島が毛利氏支配下に組み込まれたとみられ,伊予来島氏の能美島支配は,毛利氏との提携を前提とするものであろう。戦国期における三吉浦分の給人について明記した史料はないが,三吉氏と推測される。すでに嘉禎2年3月日の安芸国能美荘々官等注進状に「宗平〈三吉一郎〉」が見え(譜録),さらに,応仁の乱前後の年未詳12月16日の河野教通書状によると,三吉某は,忽那通光とともに数年来,河野教通方として忠節を尽くしてきたという(忽那家文書/伊予史料集成)。能美島と伊予との因縁の深さを思わせる。なお,「予章記」によると,貞治4年河野通尭は細川頼之のため伊予を逐われ,南朝方に帰順して九州へ赴く途中,能美島に滞留したとするが,この記事中に「三吉浦」が見える。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7423980
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ