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- 向島(中世)とは
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向島(中世) 南北朝期~戦国期に見える地名大隅国のうち桜島の古名建武元年5月17日付の法眼隆然奉書に「大隅国向嶋西方」とあり,河原道勝が薬師如来を安置した同地の香福寺に,その敷地や仏聖灯油田が寄進されている(安養院文書/旧記雑録)また,観応2年6月25日付の貞家奉書によれば,悪党を島に引き入れたことで河原越前守を問責しており,鎌倉末期から南北朝期にかけては河原氏が島の西部を支配していたことが推定される(同前)「安養院文書」中には,観応2年6月19日付の某下文があり,「或号講免田,或称道領」して惣領百姓を籠置くため,公事が欠如すると問責しているが,これも河原越前守に対するものであろうその後,正平7年閏2月10日には「むこうのしまよこ山」のひのかわ御家が上山堂地居屋敷を上山衛門五郎に譲っており(上山寺文書/旧記雑録),明徳4年6月26日には「向嶋西方内藤野村名頭職」が刑部九郎に宛行われている(向島士藤崎正兵衛文書/旧記雑録)応永20年,島津久豊が菱刈へ出兵した留守に伊集院頼久が鹿児島に攻め入ったが,「応永記」には同年12月上旬のころのこととして「御屋形ハ東福寺城ニ打入給ヘハ,廻・市成・下大隅・向之島ノ小船共,鹿児嶋ヲ差テ二三艘五艘十艘漕連タリ」とある(旧記雑録)以後,永享11年2月18日付の島津持久袖判証状に福昌寺慧灯院への寄進田畠として「向島西堂之村」「向嶋野尻村」「向島赤水之内園一ケ所」(福昌寺文書/旧記雑録),嘉吉2年3月17日付本田氏宛島津持久宛行状に「嶋津庄大隅方溝辺六町・同城并向嶋内有村事」(本田重恒譜/旧記雑録),天文6年12月24日付本田紀伊守宛島津勝久宛行状に「一 向嶋地頭之事并岳・藤野・松浦・さいたう(西道)・赤水之事」(勝久公御譜/旧記雑録),永禄12年11月13日付妙谷寺宛島津義久寄進状に「向之嶋赤生原」(妙谷寺文書/旧記雑録)などと見えるこの間,「樺山玄佐自記」によれば,天文8年島津貴久は樺山安芸守に松浦・二俣を給し(のち藤野に召し替え),喜入式部大輔に赤水を給しているまた,元亀2年11月には,伊地知重興が肝付兼続・禰寝重長と連合,兵船300余艘をもって向島の赤水・横山・野尻を攻撃したが,敗れて垂水へ退いた(長谷場越前自記など/旧記雑録)天正13年には本田正親領二俣と上井覚兼領白浜との境界争いがあり,当時の向島地頭川上源五郎が裁定を下している(上井覚兼日記)下って,関ケ原の戦では,島津氏は西軍に属して敗退したが,義弘が向島藤野に蟄居して徳川氏に恭順の意を示し領土を安堵された島名については中世の文書にはほとんど向島と見えているが桜島と記したものもある「宇治拾遺集」によれば,桜島忠信という者が大隅守に任ぜられその国に在ったとき,島の郡司を召出してその非違を糺したところ郡司は「老いはてて雪の山をばいただけど霜と見るにぞ身はひえにけり」と歌で答えた忠信は年老いた郡司の歌に感じてその罪を許し,その歌を拾遺集に載せたその事により桜島忠信の名が知れ,その島を桜島と呼ぶようになったというまた向島の名は,島の中央にある岳がどの方向から見てもその方向に向かっているように見えるところから起こったとも,あるいは鹿児島の対岸にあることから名づけられたともいう元禄11年12月24日藩は向島を桜島と改称した(旧記雑録)この島は火山島で中世では文明3年に黒神方面,近世天明7年には野尻方面が大爆発をしている島に燃崎といわれる所があるがこれは爆発のとき流れ出した溶岩が岩丘となったところである |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
向島(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」