ケータイ辞書JLogosロゴ 向山村(近世)


広島県>八千代町

 江戸期〜明治22年の村名。安芸国高田郡のうち。広島藩領。明知・給知が入り交じる地。村高は,元和5年「知行帳」,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに155石余。正徳2年所務役人頭庄屋郡邑受方記では戸数60・人数240。「国郡志書出帳」によれば,田7町余(103石余)・畑3町余(9石余)・屋敷1町余(15石余),高26石余,土蔵4,牛馬屋55,牛73・馬5,村のほぼ中央を北から南に流れる根ノ谷川の谷沿いに「三次【みよし】路」といわれる脇往還出雲街道が走っていた。その出雲街道上にある根の谷橋は長さ6間・幅2間の板橋で,地内には他に幅2尺の板橋が向山渡・長賀に各1か所架かっていた。また「田地水懸り不宜,谷川水雨池等にて相凌申候ゆへ照続候旱損多く」とあるように,根谷川の水は地形上田の用水にはなり難く,多くは溜池にたよっており,平はら・後山・本郷に各2の溜池を設けている。地内には御建山備前坊山がある。留山は笹門山・次山・沓折原山・磨石山の4か所,野山3・腰林6。農間余業としては「山峠等仕り可部町へ小割抔負出し渡世し多足に仕来り申候」とある。神社は地主大明神・祇園社・山神・大年(大歳)・大番(黄幡)が各1社,荒神が3社ある。平原に釈迦堂,本郷に観音堂がある。廃寺としては備前坊山の山頂に西光寺跡があり,備前坊山の名はその坊舎に由来するかとも伝えられている。また的場には長安寺跡がある。明治4年広島県に所属。同6〜14年の地租改正のための調査によると,田官定収穫は36町余・437石余,同じく畑は11町余・56石余。同17年からは地内を通る出雲往来の整備が行われ始める。戸数・人口は,明治3年90・461,明治15年95・473。明治7年篤行舎(のちの根野小学校)が教師1・生徒20(すべて男)で発足。同22年根野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424040
最終更新日:2009-03-01




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