ケータイ辞書JLogosロゴ 横坂郷(中世)


広島県>世羅西町

鎌倉期〜戦国期に見える郷名備後国世羅郡大田荘大田方山中郷のうち建久元年6月の僧鑁阿置文に村々別作田の所在地として「横坂ノ福田長田」とある「芸藩通志」長田村絵図に津田川沿いの「横坂谷」が記されている現在の世羅西町長田に比定される福田は現在の世羅西町山中福田の一部,長田は同町長田にあたり,中世の当郷はこれらの地域も含んでいたらしいまた,当郷は戸張郷・宇賀郷などと同様,永万2年の大田荘立荘よりもあとに荘の一部となった加納の地とみられる大田荘大田方では地頭三善氏が順次庶子家に地頭職を分割して郷・村ごとに地頭ができたが,鎌倉末期,14世紀当初には横坂地頭も成立していた当郷地頭は「山中横坂一分地頭」ともいい,山中郷地頭から分かれたものらしい徳治年間,領家高野山は地頭と「横坂郷所務事」について相論し,幕府の裁許によって当郷の下地は地頭,雑免は領家雑掌に属すことが定められたついで,領家雑掌は年貢未進について横坂郷地頭余三有綱を六波羅探題に訴え,正和元年10月には郷内地頭分の未進年貢の結解を遂げ年貢を究済すべき裁許が下されたが,なお決着はつかず,相論は鎌倉に場を移して続けられたとみられるこののちも当郷地頭富部有冬は雑掌を追い出し,年貢を抑留するなどの非法を働いたという元徳2年,領家雑掌と地頭有冬が和与を結び,地頭の年貢未進を不問に付すかわりに郷内平民名の下地・山野を領家の進止とすることなどが定められた南北朝期には,康暦元年5月1日付大田荘文書御影堂奉納注文に「一通 横坂溝熊地頭広沢信乃守去状」なる文書があり,当郷は在地武士広沢師実の押領を被っていることが知られる(高野山文書)南北朝期〜室町期には高野山の支配は後退し,応仁の乱以降,守護山名氏の領国の中に組み込まれていった文明7年11月24日付毛利豊元譲状(毛利家文書)には「山中 横坂要害」とあるこれによれば当地は一時,東軍方の山名是豊が拠っていたが,毛利豊元が攻略して手中に収め,弘元に譲与している
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424261
最終更新日:2009-03-01




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