ケータイ辞書JLogosロゴ 吉和郷(中世)


広島県>吉和村

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。安芸国佐西郡のうち。応永4年6月の厳島社領注進状に吉和村の名が見える。「周防秋穂八幡宮旧記」の応仁元年の記事中に,吉和の杣人の活動が知られ,年未詳3月18日の毛利隆元書状に吉和より板100枚が児玉助左衛門のもとに送られ,楯に調製することが報じられており(譜録),木材の産地として著名であったらしい。友田・浅原・虫所山とともに山里四郷と呼ばれた。天文10年7月5日の大内氏奉行人連署奉書によれば,厳島社洗米料に充当するため大内氏から厳島社に「佐西郡吉和郷神米七拾弐石」が寄進されている(厳島野坂文書)。同20年以降,大内氏にかわって陶晴賢の支配地になったが,同23年に当地において毛利方と陶方の吉和山里一揆方が合戦し,一揆方が敗北した。同年7月18日の毛利氏の感状写によると,三上・羽仁・天野諸氏の活動が知られる(閥閲録128・146,天野毛利文書)。年月日未詳の二宮俊実覚書に「吉和山城之者共相催,弐千余大田至かけ打出候」とか「吉和之百姓等余不相随候間」と見え,そのときの一揆側の動向をうかがうことができる(吉川家文書)。その後,当地は毛利氏支配下に入り,直轄領・給人知行地が設定されている。天正10年8月23日の毛利輝元書状によると,児玉菊千代丸が吉和代官に任命されている(閥閲録96)。当地の150貫分が神田氏の給地であったが,同年10月5日,輝元室宍戸氏の祈念のため,毛利氏から厳島社へ寄進され,同月21日,神田元忠は当地の裁判権の留保を願い出ている(厳島野坂文書)。この頃当郷は,「吉和東分」「吉和西分」に分割され,厳島社領として史料上に多く見える。なお当郷の氏神は佐伯郡上平良村の速田大明神を勧請した速田神社で,室町期の大般若経全巻を伝える。また妙音寺原には,鎌倉期大覚禅師が安芸国行脚の際に建立したと伝承する禅宗妙音寺があり,西法寺・正覚庵・西福寺・西願寺など多くの寺坊を支配していたという。妙音寺は寛文4年の寺院本末改めに際して,佐伯郡佐方村洞雲寺末寺となり,他の寺坊はすべて廃寺となった。このほか,地内には半坂尾城・花原城・熊崎城・駄荷城・平城など中世の城址があり,天文末年の太田山里一揆の際の古戦場跡が,花原・熊崎・駄荷・筒賀境など各地に存在する。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424323
最終更新日:2009-03-01




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