ケータイ辞書JLogosロゴ 厚狭荘(中世)


山口県>山陽町

 平安末期〜室町期に見える荘園名。厚狭郡のうち。寛治4年7月13日付の賀茂社古代荘園御厨(大日料3‐1)によれば,堀河天皇は賀茂御祖社に対して御供田745町を寄進したがその1所に「長門国厚狭庄 公田卅町」が見える。これは「百練抄」に同日付で,賀茂社に600余町の不輸租田を寄付した記述と符号する。次いで内閣文庫所蔵の下賀茂神戸記によれば,文永10年6月3日付で,京都の賀茂社社頭犬防並築垣注文として,北面のうち14間を厚狭分としており(広島県史古代中世資料編1),貞和4年8月6日付の賀茂御祖皇太神宮諸国神戸記(内閣文庫蔵)にも「厚狭」と見えるが,これは厚狭荘を指すものと考えられる。さらに,貞和5年11月21日付の「安尾文書」では,前年貞和4年から明くる年(観応元年)までの年貢沙汰の使者右衛門入道円阿を下すとして,紀氏(名欠く)が長門国府金屋大工正善にあてた文書中に,長門国金屋の例として,須佐・津波木・瀬戸崎とともに,厚狭新金屋があげられている。室町期の延徳元年5月23日以降,後土御門天皇は,賀茂下上両社伝奏の公家甘露寺親長をして,鴨社に御神体新造と社殿造営を督促したが,それに関連して,鴨社領のうち,応仁元年以来大乱のため年貢を社納せず不知行のところがあるとした中に,長門国厚狭荘と土佐国津野荘は社納なりとしている。ただし厚狭荘は公用5,000疋で,この額は有名無実になっているが,只今も上使を下し置いており,延徳元年9月12日付のものでは,前禰宜信祐が社納なき由を申し上げたのは近頃の次第であると祐宣が記している(京都御所東山御文庫記録/大日料8‐27)。以後,鴨社領としての帰趨は未詳。ここでいう厚狭荘とは,史料に鎌倉末期から現れる鴨荘という荘園と同一のものと考えられる。戦国期になって伊勢御師橋村家の「中国九州御祓賦帳」享禄5年分に,厚東吉見と埴生市の間に,「あさ ゆわたけまこ衛門殿」と記されている(県史料中世上)。天文元年11月22日,豊後国から大友氏の軍勢が豊前妙見岳城に来襲してきた際,同国の武士佐田大膳亮朝景が防戦に努め,分捕手負注文を記して提出したところ,大内氏の重臣杉興重が,厚狭において受けとり,主君大内氏に報告したとする史料が「佐田文書」にある(熊本県史料中世篇2)。「策彦和尚入明記初渡集」天文10年7月28日条によれば,大内氏の遣明船副使策彦周良が帰朝の際,浅(厚狭)郡の大福寺に宿をとり,ここは時宗遊行上人の門派で,赤間関から厚狭まで8里あると記し,翌日厚狭郡山中に向けて山陽道を進んでいる(県史料中世上)。薩摩の島津家久が上洛したときの記録「家久君上京日記」天正3年3月16日条には「あさの町」があるが(鹿児島県史料拾遺4),天正8年頃の毛利氏八箇国時代分限帳(県文書館所蔵文書)には,「厚狭廿五日市〈目代給後地共ニ〉六石五斗」とあり,すでに厚狭に市町があったことが分かる。同分限帳では,厚狭の地は,大半が隣の末益とともに出雲国出身の給人三沢摂津の所領1万石2斗5合に含まれていたものと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424450
最終更新日:2009-03-01




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