ケータイ辞書JLogosロゴ 朝倉荘(中世)


山口県>山口市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち。朝蔵荘とも記し,また朝倉郷・朝倉保ともいう。「社家条々記録」(八坂神社記録2/続大成)の後堀川院の項に,「任永承之文書,貞応二年為旬神供并長日大般若仁王経䉼為䉼所被寄附周防国朝倉庄」と見える。当荘は貞応2年に旬神供ならびに長日大般若仁王経䉼所として祇園社へ寄付され,同社領荘園となったことが知られるが,永承年間にすでに立荘されていたのかもしれない。また同書によれば,貞永元年当荘は国衙領に編入され,祇園社にはその替えとして河内国石河東条荘が永代不輸の神領として与えられた。貞永元年の前年,寛喜3年には,周防国は再び東大寺造営料国となっているから,ここに当荘は国衙領として東大寺造営料所となったと考えられている。しかし,「祇園社記」(八坂神社記録3)によれば,祇園社祭礼について「周防国朝蔵庄濫傷(ママ)事,〈建長年中〉」とあり,建長年間に至って再び祇園社領化したのではなかろうか。南北朝末期永和3年4月15日朝倉八幡宮宝物猿田彦仮面裏銘(注進案13)によれば,多々良氏女某が大願主となって「朝倉郷八幡宮」に獅子頭を施入している。下って戦国期,永禄9年8月18日付の原久左衛門宛毛利輝元袖判書状(閥閲録36)に「朝倉保国衙米高廿石之事」と見え,常栄(毛利隆元)以来,毛利輝元から原武信への給分として与えられていた。その後,当所は,毛利輝元によって「朝倉之内弐拾四石之地」が天正7年5月9日国重又右衛門尉へ,「朝倉之内拾五石」等が天正9年5月15日南方宮内少輔へ,「朝倉之内拾弐石」が同年5月23日中島善左衛門尉へそれぞれ給与されたことが知られる(閥閲録51・47・76)。また,天正13年2月9日付の竹屋平兵衛尉宛毛利輝元裁許状写(防府東大寺領古文書/注進案10)によると,「吉敷郡朝倉山田垣内参石余田」の当知行について裁許がなされており,同年6月11日には,朝倉その他の所領が以前のとおり防府国分寺領・法花寺領として寄付されている(寺社証文22)。天正19年11月9日付の知行付立写(閥閲録45-2)には,三浦兵庫頭元忠分として朝倉において826石余の知行分が記されている。当荘域について「地名淵鑑」は「今,下宇野令朝倉の地方是なり,旧藩地下上申迄は朝倉村あり,注進案に至りて下宇野令村に合す」と記し,さらに陶氏の一族が当荘を領知し,朝倉氏とも称したと述べている。「二十二社註式」(県史料中世上)に「周防国朝倉八幡〈神体,同宇佐〉」とあるように,当荘内には朝倉八幡宮が存在した。同宮の宝物の1つである獅子頭に「敬白 大願主多々良氏女 奉施入朝倉郷八幡宮輿頭壱面事 作者大金 永和三丁巳卯十五」という刻銘があり,その左右に「天文六丁酉八月吉日 奉再□ 沙門元慶 塗子助左衛門」と漆書してあると記している(注進案13)から,少なくとも南北朝期までは「朝倉郷」に八幡宮はあったと考えられる。また一説に山口を朝倉市と号したともいう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424464
最終更新日:2009-03-01




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