ケータイ辞書JLogosロゴ 阿弥陀寺町(近世〜近代)


山口県>下関市

江戸期〜現在の町名古くは「あみだじちょう」とも称した江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領長府藩初期の赤間関七か町の1つ(下関二千年史)紅石山の南麓に位置し,関門海峡に面する地名は,中世に当地が阿弥陀寺領であったことに由来する寛政4年の家数207・人数826うち男411・女415(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)古くは阿弥陀院寺浦,のち阿弥陀寺浦ともいって漁村であったが,長府毛利3代藩主綱元のとき,町内の漁民を壇之浦(現みもすそ川町)に移して長府藩御蔵米の蔵が建てられたその後,廻船問屋をはじめ船宿・魚屋・料理屋などが次第に増えたまた,赤間関で唯一の飛脚屋があった当町内の小字・小名に大倉・引地・梅ノ坊・李鴻章通り・徳利小路(関の町誌),後小路(県風土誌)があった大年寄役を勤めた伊藤家は本陣でもあり,広大な邸宅であったこの本陣には,オランダカピタン一行,吉田松陰も馬関砲台視察や九州遊歴のとき宿泊している伊藤家はシーボルトや坂本竜馬とも親交があったまた明治5年,明治天皇の西国巡幸のとき宿泊所となった阿弥陀寺(現赤間神宮)は,安徳天皇を祀る赤間神宮所蔵の紙本墨書平家物語(長門本)・赤間神宮文書は国重文,紙本金地着色安徳天皇絵は県文化財,年中行事の先帝祭は市無形民俗文化財に指定されている文久3年には奇兵隊が隊員増加のため同寺へ移った(奇兵隊日記)境内に安徳天皇陵があり,本殿のほか大連神社,鎮守八幡宮がある八幡宮は,阿弥陀寺の鎮守また西海鎮護の神として藩主の崇敬が厚かった寺院には浄土真宗本願寺派極楽寺がある同寺には文久3年,奇兵隊が一時駐屯した(奇兵隊日記)下関攘夷戦当時,当町の紅石山,梅之房(坊)に各種大砲が配置された(白石家文書)天保10年に三宅吉右衛門が寺子屋を開設,弘化4年に廃止された(下関市史)明治6年,伊藤弥六宅に養治小学が開校,のち本町3丁目に移転明治5年,豊浦支庁が当町に置かれた同12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年からは下関市に属す明治28年,日清講和会議が3月20日から当町の春帆楼で行われた春帆楼は廃寺となった阿弥陀寺境内の一部に,眼科医藤野玄洋が開業したもので,彼の死後,未亡人が経営した旅館兼料亭である伊藤博文・山県有朋をはじめ,維新政府の高官が多く来訪した極楽寺前にあった2か所の魚市場は,はじめ私設であったが,明治38年に市営となり,大正13年,魚の取引きが盛んになった唐戸町へ移転した明治38年に今富八郎が当町の自宅で今富盲学校を創設現在の県立下関盲学校(現古屋町)の前身である同45年当町の地先1万8,550m[sup]2[/sup]の埋立地が完成し,内務省下関土木出張所,関門海峡改良事務所,機械工場が設置され,作業船の船溜りが造成された第2次大戦後は運輸省第4港湾建設局となる大正5年,下関市ではじめてのタクシー業長関自動車商会が春帆楼下で開業(下関市史)世帯数・人口は,同14年243・1,112,昭和10年231・1,143(男563・女580)なお,大正8年版の下関市街新地図には沿岸部に料亭が並んで記されている昭和20年の空襲で町の大半が焼失戦後の同24年には赤間神宮が復興したのをはじめ町勢は旧に復した(下関市史)昭和29年,一部が中之町となり,大字関後地村【せきうしろじむら】・壇之浦町の各一部を編入同39年一部が壇之浦町となり,大字関後地村・園田町・中之町の各一部を編入世帯数・人口は,同45年363・1,118,同55年304・817,同60年293・742
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424512
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ