ケータイ辞書JLogosロゴ 生雲郷(中世)


山口県>阿東町

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。長門【ながと】国阿武郡のうち。文和元年8月10日付の大井八幡宮御祭礼諸郷鼓頭出仕座配本帳には左座八番に当郷が見え(大井八幡宮文書),永正5年書写の大井郷八幡宮御済納米銭役人文書によれば,当郷は米4斗7升4合・銭218文・田楽1人・相撲1人を負担することになっている(寺社由来7)。文明2年には当地で合戦があり,同10年正月11日付の黒水掃部助宛大炊入道祐泉愁訴状(黒水文書/大日料8‐10)には「文明二年,阿武郡渡川御陣之時,大殿様(大内教幸)石州より阿武郡御出張候て,生雲におひて御合戦」とある。天文21年9月16日には大内晴英が,明応8年の大内義興裁許,天文14年の大内義隆証判に任せて,池永修理進重忠跡の生雲郷内25石足を池永虎千代丸に安堵しており(閥閲録168),弘治4年3月28日には吉見正頼が,「阿武郡地福郷内庄下名七石六斗余,同郡生雲郷内細野村内弐石足地」を安兵庫允氏稔に宛行っている(同前107)。この宛行状によれば細野村が郷内にあったことが分かるが,安芸厳島神社の廻廊棟札写に,廻廊1間の檀那として「長門阿武郡生雲郷篠目村 天文七秊三月十五日 児玉新左衛門房繁」とあり(大願寺文書/広島県史古代中世資料編3),篠目村も当郷内であった。また,「大内氏掟書」の「従山口於御分国中行程日数事」には「阿武郡……椿,三見,地福,得佐,生雲一日,請文七日」とあり,「中国九州御祓賦帳」享禄5年分には地内の「ほそのゝ茶やひこ衛門殿」が見え,天正14年分には「ゆくも郷分 内海主殿助殿 宿」とある(県史料中世上)。その他,天正13年6月18日付の安喜三次貞宛吉見広頼感状(閥閲録107)には「山口九品寺夜討,同類二人至生雲口通之刻心懸之,討留之段」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424560
最終更新日:2009-03-01




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