ケータイ辞書JLogosロゴ 宇佐郷村(近世)


山口県>錦町

 江戸期〜明治22年の村名。周防【すおう】国玖珂【くが】郡のうち。萩藩領。奥山代宰判に属す。慶長5年検地帳では宇佐村のうち,同15年検地帳・寛永2年検地帳や「元禄郷帳」では大原村に含まれ,「地下上申」には宇佐郷村と見え,「天保郷帳」では宇佐村に含まれたと思われる。なお,「注進案」では宇佐郷大原邑,「旧高旧領」も宇佐郷大原村とある。村高は,寛延3年918石余(地下上申)。小村は柱かせ・道立野・浅原・浜小・立野・向垰【むかたお】があり,小名に長土路・金山谷・横道・休ミ・中畠・野地・中村・芝・中ノ原・みてが原・倉懸・紙屋・えら藪・向ヒ原・糘塚・押切谷・押切・迫・土休ミ・落合・後野・石が休ミ(同前)。寛永2年諸臣知行替えの後は給領地はない。寛延3年の家数224・人数713(男398・女315),船役銀など651匁余(地下上申)。筒井八幡宮氏子駈帳に木地屋数として,貞享8年3,安永9年2と記されている(木地師支配制度の研究)。慶長13年の一揆では,当村から庄屋平兵衛(山田家)が指導者の1人として参加し,翌年引地垰で処刑されて,首を物河の河原にさらされた(本郷村誌)。神社は,京都吉田から勧請とある河内神社,ほかに向峠に剣霊神社がある。同社は,元亀3年讃井雅楽助が祖先伝来の宝剣の上納を行って,吉田より勧請したものという(注進案)。寺院は,文禄年間の建立の真宗松柄山願行寺がある。寛永8年から藩は奥山代宰判下の貢租を紙で代納清算する制度をとり,漉紙のほぼ全量を貢租として吸収するよう石盛をした。楮や紙の請量を農民ごとに定め,その上納を義務化し,不足の場合は農民に負担させもした。年貢米は,藩庫に輸送せず,紙や楮の御仕入銀の一部や農民の不足米売渡しのため各村の御蔵に収蔵していた。「注進案」では,当村の御蔵設置場所は,道立野・宇佐郷・向峠とある。元禄年間中期頃から楮不足が慢性化し,農民は買楮・買紙あるいは銀で弁償するほかなく,村は次第に窮乏化した。ついに,享保3年山代農民一揆が勃発したが,当村からの参加者はなかった(防長造紙史研究)。天保12年の宇佐郷大原村として家数304うち農家230・大工4・桶屋7・杣木挽49・宿屋8・中買小商人4など,人数1,010うち男508・女502,紙専売制度の請紙制のうち請楮は1,403釜余(1釜は標準紙20束分),同年に実際に生産された楮673釜余,他村よりの買楮は339釜余,これで紙を漉き立て上納した。また,手取銀は,諸上納銀差し引き残り3貫530匁余,このほか黒保紙(楮くずで漉いた紙)・蕨せん・煙草・板・炭など17貫837匁余,また薬草・ワサビ・松茸・麻・熊・猪・鹿など8貫700匁を合わせて銀29貫587匁余,食糧は諸上納差し引き手取り米197石余と雑穀1,132石余の合わせて1,329石余で,小芋4,000貫余,大根3万貫余を混ぜ合わせて食糧とし,不足分は他からの買入れによったと思われる(注進案)。地内向峠は水利の悪い畑作地帯であった。畔頭の山田利左衛門は,天保14年代官に用水路の建設と畑田成の開墾を許され,同年金山谷から深谷川の水を引き,5.3kmの用水路開削工事に取り組んだ。安政3年までの13か年間に水田10町歩余,さらに,文久元年までに用水路の改良や田の開墾約14町歩を完成,同地を水田地帯に変えた(山田家文書)。慶応2年の第2次長州戦争では,宇佐郷大原村からも猟銃隊91人,剣銃隊35人,ほかに地下猟師などで編成された山代兵7人の計133人が山代兵として出陣し,大原村に集結し,生山峠などの守備にあたった。明治4年山口県に所属。同22年高根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424720
最終更新日:2009-03-01




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