ケータイ辞書JLogosロゴ 宇野令(中世)


山口県>山口市

 鎌倉期から見える地名。吉敷郡のうち。現山口市の上宇野令・下宇野令とその中間にあたる山口市街地を含む地域。令は領に通じ,行政の一区分。本来国衙領であったと考えられるが,鎌倉前期の大内介知行所領注文(東大寺文書)に「一所 宇野令」と見え,鎌倉期には大内氏所領の一部であったことが知られる。明徳2年2月日付の「興隆寺文書」には,興隆寺別当祐暹・祐弁両人の買得知行分として,同寺法花堂領である右田氏の名田矢原,江木氏の名田宇野の秋弘,宇野氏の名田宮野の大畠を挙げている(山口市史地区篇)。また,この直前か,あるいはその後大内盛見時代の応永年間頃か年未詳正月29日付の氷上山別当坊宛大内氏奉行衆奉書によれば,「当寺法花堂料所宇野令内秋弘名,宮野西方得万名并島池等」について煩いが生じている(寺社証文11)。大内氏の系図によれば,貞成の弟清致は当地に住して宇野氏を称し,永享4年には守護代宇野帯刀入道の名が見える(同前11)。大内弘世は延文年間の頃,居館を宇野令の中央部に移した。以後,当地は大内氏の繁栄とともに栄え,香積寺・国清寺・法泉寺・保寿寺・覚光寺・高嶺大神宮・多賀神社などが建立された。応永15年11月25日には大内盛見が当地内田畠を国清寺に寄進,翌年7月12日にも国清寺西境の「宇野令観音寺領」を同寺に寄進している(同前16)。その後,文明16年7月20日付の大内氏奉行衆奉書に氷上山領である「宇野令後田」が見え,安富掃部助房行の屋敷地として認められている(同前12)。また,天文13年11月13日には高嶺大神宮に当地内1町1反余地が年中御供料所として大内義隆より寄進されている(同前20)。大内氏滅亡後,周防国は毛利氏の支配下となる。弘治2年4月5日には沼間城攻略の功により陶元弘に当地内80余石が宛行われ(福原家文書上),翌3年には当地内3町7反余地が祇園社領として大宮司松田時重に安堵され(寺社証文20),永禄9年には当地内1町1反大が高嶺大神宮領として大宮司大蔵少輔に安堵されている(注進案13)。天正19年11月9日付で三浦兵庫頭に宛てられた毛利氏奉行衆の知行付立には宇野令1,057石8斗2升6合と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424771
最終更新日:2009-03-01




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