ケータイ辞書JLogosロゴ 大内村(中世)


山口県>山口市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち。建久6年9月日東大寺領周防宮野荘立券文(上司家文書/鎌遺815)に宮野荘について「在管大内村内」と見える。これは宋の工匠陳和卿が東大寺大仏殿造営の功によりあてられた宮乃領を改めて灯油料として東大寺に寄進したことにより,朝廷から宣旨を下され,周防国衙と東大寺両方から立券使をそれぞれ派遣してその境界を定めたときの立券文である。したがって,ここに見える大内村は,後世の狭い区域を指す大内村とは異なり,椹野【ふしの】川・仁保川・問田川の流域地方の汎称と考えられ,「鹿苑院西国下向記」(県史料中世上)等に見える「大内県」に当たるものと同一と思われる。氷上山興隆寺の正嘉元年11月27日の古鐘銘(注進案12)に同寺の所在地として「周防国吉敷郡大内村」とあらわれる。弘長3年6月2日の某下文(山口宝現霊社大宮司高橋家所蔵文書/鎌遺8959)によれば,成家という者が「大内公文職」に補任されている。これは大内村公文職のことか。永仁2年10月10日付の北条実政施行状案(尊勝院文書/同前18673)に当村が東大寺支配下の周防国衙領の1つとして見えるが,年未詳の大内介知行所領目録(東大寺文書)に周防大内氏所領の1つとしても見える。大内氏の名字の地として,国衙領を同氏が私領化していたとみられる。また鎌倉末期の元応元年正月3日の某袖判下文(防府宮市町兄部氏古文書/注進案10)に五郎太郎(兄部氏祖か)が補任された「周防国合物売商人等長職」の成敗する範囲の北限は「大内并得地市」であった。貞和4年10月23日の仁戸田孫太郎入道宛の妙厳書状に「周防国大内村仁戸田保内武光名」と見え,大内氏庶流仁戸田氏の所領として安堵されたが,応安2年8月25日,右衛門尉幸義から幸義名田と合わせて興隆寺法花堂へ寄進されている(注進案12)。仁戸田保は今日の矢田の神田辺りを指す。「海東諸国紀」に「大内殿,多多良氏,世居州大内県山口」と見えるのをはじめとして大内氏の在所を「大内県」と書く史料が多いが,この場合,山口地区を指すようである。永正7年写の諸郷保国衙一円図田分注文(得富文書/周防国府の研究)に「大内村 九十一丁四段九十歩」とあり,そのなかに今渡・宮次等の散在名を含んでいた。これは,前年大内義興から東大寺へ返付された国衙領の1つである。なお,「中国治乱記」によれば,大内氏の祖琳聖太子の足跡を語る中に「多々良浜より富(問)田の奥の大内畑と申す所に移り,乗福寺と云ふ所に居住あり」とある。乗福寺には今も琳聖太子の墓と伝える石塔がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424838
最終更新日:2009-03-01




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