ケータイ辞書JLogosロゴ 大附町(近世)


山口県>山口市

 江戸期〜明治22年の町名。山口町のうちの1町。西門前町の西詰,荒高町との境を南へ行き,一の坂川に架かる新橋を渡ったところの町で,これをさらに南へ行けば鰐石【わにいし】町から三田尻に通ずる。西は下宇野令村上羽坂(山口古図には井戸村とある)で,東は今道町に続く。三田尻方面から石州街道へ出る町筋に当たり,古くは人々の往来も多かったと思われるが,萩からの往還が米屋町から今道町へ抜けたために次第に寂れた。「山口古図」によれば,当町の東に並行する道筋のうち北側の道場門前に通ずる方に奥小路,南側の今道町に突きあたる方に下ノ丁が見え,当町と新橋町の間を東へ奥小路を横切って今市へ出る通りに中裏町,また,当町と鰐石町の間を同じく東へ向かい,奥小路・下ノ丁の間を通って今市へ通ずる通りに後ロ町が各々記されている。「注進案」に見える山口市中54町のうちに奥小路があり,また,54町のうちの下り町は下ノ丁のことか。宝暦年間の家数10(古実類書集)。明治7年当町の右田屋敷跡に真宗明道学舎,また,これに合わせて仏教各派の協同学問所が設立されて大附教校といい,同10年真宗が分離して隣接して校舎を建て開導学校と称した。のち大附教校は浄土宗のみとなっていたが大阪に移転し,開導学校も明治35年廃止された。明治12年の周防長門諸郡一村限地券税帳によれば,畑5反余・宅地1町3反余。同16年の戸数37・人口124(県の統計百年)。同22年山口町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424877
最終更新日:2009-03-01




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