ケータイ辞書JLogosロゴ 岡枝郷(中世)


山口県>菊川町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。長門【ながと】国豊東【ぶんとう】郡のうち。正和2年5月2日の関東下知状によれば,鎌倉御家人天野観景の死後,子息の同顕茂と同景広との間で遺領をめぐる相論が発生しており,景広の所領として「長門国岡枝郷」が見える(天野文書/鎌遺24863)。この相論は和与となり,当郷は天野景広の所領として認められた。当郷は,天野氏の先祖にあたる天野政景・同義景が長門守護に任ぜられたときの所領と考えられる。南北朝期の正平18年の諏訪大明神(上岡枝所在)の棟札によれば,同社の再建にあたって「地頭長門守弘氏」が名を連ねており,末武弘氏の支配を受けていたと考えられる(寺社由来7)。室町期の文安6年3月5日の大内教弘安堵状によれば,「長門国岡枝郷保木村安養寺住持職并大行事免田畠」が安堵されている(同前)。また,戦国期の文明13年6月日の一宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢注文案写には「一所平田五段 岡枝郷桜井村内御酒意䉼田 分米壱石」と見え,長門一宮住吉社領を郷内にもっていた(住吉神社文書/住吉神社史料上)。天文21年6月23日の大内氏奉行人連署奉書には「当寺(長府修禅寺)如法経并管弦講料岡枝郷吉賀村之内恒光名拾七石余地」が見え,郷内には長府修禅寺領も存在した(同前)。弘治3年9月28日の毛利隆元安堵状には「長門国豊東郡岡枝保木村」が見え,厳島合戦の後,直ちに毛利氏の勢力が当郷域に伸びてきており,大内氏同様に安養寺住持職等を安堵している(同前)。永禄6年閏12月13日の毛利元就安堵状によれば,岡枝郷のうち33石足を伊佐兵部丞に知行させており(山田文書/大分県史料10),また,元亀3年閏正月13日の毛利輝元書状によると「長州豊東郡岡枝之内,氷上山安養坊領拾石足」を児玉元村が知行している(閥閲録19)。おそらく,この時期,郷内の地は毛利氏被官人の領地化が急速に進んだものと考えられる。天正13年6月13日の毛利輝元宛行状によれば,「岡枝郷五石地」が金子範直に宛行われており,郷内は毛利氏被官人によってモザイク状に支配されたと考えられる(同前162)。しかも,天正17年5月3日の一宮神領付立によると,「一,米弐拾八石四斗五升〈豊東郡〉岡枝郷ニ在之〈但内日郷分共〉」と見え,一宮領も存続していた(住吉神社文書/住吉神社史料上)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7424930
最終更新日:2009-03-01




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