ケータイ辞書JLogosロゴ 賀河郷(中世)


山口県>山口市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち。賀川・加川・香河・香川とも書く。室町期以降,郷・村を付して呼ばれることは少ない。天福元年7月9日の関東下知状案(東大寺要録/鎌遺4538)によれば,「且小郡並賀河郷者,当庄一所也」とあり,当郷が小郡とともに椹野荘内にあった。また同下知状案によると,建久9年4月,賀保荘を本拠とする白松藤二資綱が頼朝から両所の地頭職に補任されたと称したが,東大寺の訴えによって地頭職は停廃されたという。一方,嘉元4年6月12日付の昭慶門院御領目録(竹内文平氏蔵文書/同前22661)中に安楽寿院領の1所として「賀川別荘」が見える。その成立事情は明らかでないが,呼称からすると椹野荘(東大寺領)内の賀河から分立して形成された別納の地であろう。その後,永享11年3月日の善福寺末寺注文(寺社証文14)に「賀河 福明寺 願主江口隼人入道慈源 田地壱町三段」と見え,当地に山口善福寺末寺の福明寺が存在し,椹野川河口付近に居所を置いていたと思われる在地領主江口氏の存在が確認できる。近世の地誌に江口は賀川市内にあり,通称村屋河内とある(注進案14)。福明寺の所在未詳。なお元応元年正月3日の某下知状(閥閲録164)によれば,周防国合物売商人等長職の職権の及ぶ範囲は,東は富田市,西は賀川市,北は大内・徳地市と見える。当郷に市が形成されていたことが知られるが,応仁元年6月1日の「周防秋穂八幡宮旧記」(県史料中世上)に「賀河鍛冶一人召仕候」とあり,小郡内の柳井田と同様,当地にも鍛冶職人が居住していた。これは賀川市の存在とも関連すると思われる。戦国期,当地における毛利氏給人をあげると,弘治4年2月23日,毛利輝元は山田右衛門尉に「賀川村内」の7石以下の地を安堵し(閥閲録163),天正10年と推定する10月20日付の小早川隆景書状(同前22-2)によれば,来島氏の織田方への内応が明確化した段階で,毛利氏は野島村上氏の武吉・元吉父子に対し「賀川・伊保庄」両所のうち500石を与えている。また天正19年11月9日の三浦元忠持留分のうちに当地は509石5斗5升8合とある(同前45-2)。年未詳の6月15日付毛利家奉行人粟屋元親書状(同前168)によれば,毛利氏は剣持余左衛門尉に「賀河公文・塩浜銭并市御公領」の取沙汰を命じている。なお天正16年正月賀河のうちの賀河八幡宮所在地宮原には,安芸厳島社社家棚守氏(元行)領が3町1反余存在し,10人の抱田があった(野坂文書/広島県史古代中世資料編3)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7425013
最終更新日:2009-03-01




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