ケータイ辞書JLogosロゴ 潟上荘(中世)


山口県>山口市

鎌倉期〜戦国期に見える荘園名周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち正応3年の宝帳布所進諸荘目録(近衛家文書/福井県史資料編2)によれば,宝帳布3段が「潟上」に配分賦課されているまた年未詳の某寺修理用途支配注文(同前/同前2)にも「二千疋 潟上」とある嘉元3年4月と推定される摂籙渡荘目録(九条家文書/鎌遺22196)によれば,当荘は摂関家の氏院,勧学院領の1つであり,浄妙寺造営料所として「潟上庄 田四十三町二段三百四十歩 畠十八町七段六十歩 所当仮令二百余石」と見え,その規模が判明する南北朝期の暦応5年正月の摂籙渡荘目録(図書寮叢刊九条家文書1)によると,少納言入道某の所領として見えるが,本所は九条家であったろう戦国期の明応7年7月13日,大内義興は「潟上庄内五拾石地」を当地内の顕孝院へ寄進し(注進案14),同院の住持職と寺領はその後永正14年,天文21年,永禄11年にそれぞれ大内義興・同義長・毛利輝元に安堵されている(同前)また大永3年4月26日付の大内義興寄進状(閥閲録99‐2)に「潟上庄鋳銭司内五拾一石余地」が仏供僧食料所として凌雲院に寄進されている当荘内に鋳銭司があったことは,大永2年8月15日,天正6年3月28日紀年の鋳銭司村八幡宮棟札銘によっても確認できる(荘園志料下)当荘の位置は,「続日本後紀」承和14年2月29日条に見える潟上山を,陶【すえ】のうちの西蓮寺山のこととみて,その付近に比定する見解もある(地名淵鑑)「潟上」の地名由来は,おそらく「地名淵鑑」にいうように椹野【ふしの】川の河口部が現在より相当湾入していたことによろう近世,鋳銭司【すぜんじ】・陶村を合わせた汎称潟上荘が残存しており(注進案14),それからみても現山口市の陶・鋳銭司一帯を含む地に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7425028
最終更新日:2009-03-01




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