ケータイ辞書JLogosロゴ 勝間村(中世)


山口県>熊毛町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。周防【すおう】国熊毛郡のうち。永仁2年7月27日,鎌倉幕府は,造東大寺大勧進良観上人の訴えによって地頭等の「周防国諸郷保所務」に対する濫妨を停止し,国衙に従わせることを周防守護金沢実政に命じた(尊勝院文書/鎌遺18605)。実政は,同年10月10日このことを「勝間保地頭」等に対して施行している(尊勝院文書/鎌遺18673)。ここには保名で見え,すでに鎌倉期より国衙領として東大寺の支配下にあったことが知られる。なお,これ以前の寛喜3年4月20日の別当神光院宛大内弘貞社領安堵状には,「防州勝間八幡社領并寺領祈祷料之事,従往古勝間不残号永領致社務者也」と地名で見え,当地には八幡社が存在した。勝間社の別当寺神光院へ伝来した古文書には,戦国期の内藤氏による社領安堵状や願文等があり,内藤氏の当地域での勢力のありようや勝間社との関りを示している(注進案7)。勝間社は,熊毛神社(正倉院文書天平10年周防国正税帳/大日古編年2),厨子八幡宮(天正13年3月26日内藤元盛判物など/注進案7)などとも呼ばれて勝間村の中心に位置したという(勝間村誌)。鎌倉期と推定される後欠で年月日未詳の土師吉安申状に「勝間村書生職」のことに関して「爰勝間村者,元雖為周防本郡之内,地頭方已令隔別之上,国衙御沙汰同于斯」とある(上司家文書/鎌遺12806)。永和5年3月日の僧澄慶目安案に「周防国勝間村住人僧澄慶申同国白石寺別当御代官職事」とあり(東大寺文書目録4),南北朝期以降も当地と東大寺との関係が確認できる。応永15年3月10日の東大寺領周防白石寺勝間代官年貢請文にも「請申周防国白石寺并勝間御年貢談議(義)供料事 合 参拾五貫文 白石寺分 五貫文 勝間分」と見え(東大寺文書/大日料7‐11),以後,戦国期まで白石寺領と勝間社領は一括して捉えられている(東大寺文書/神戸市史史料編3)。その間,正長元年10月20日の周防国白石寺・勝間代官職補任状(東大寺文書/周防国府の研究)によって内藤智得が両所代官職に補任された。永享4年8月10日の目代玉祐周防国白石寺并勝間年貢請文には目代玉祐が初見し,当地は,永享4年以降,目代管理の地として存続することになったと考えられる(同前)。目代としては宝徳3年12月18日の玉叡,寛正3年3月17日の圭範,文明7年6月27日の実政,同13年8月28日の叡義などが知られる(東大寺文書目録1・3)。そして,延徳3年8月28日の得富茂貞周防国白石寺等年貢請文・同年月の周防国白石寺并勝間代官職補任状案が東大寺関係の最後のものである(東大寺文書目録1)。下って,永禄3年正月25日の毛利隆元袖判下文によれば,豊田熊寿に対し「熊毛郡勝間弐拾五石足」などを宛行っており,また天正10年8月19日には毛利輝元が児玉元理に同地を宛行っている(閥閲録19)。天文20年正月11日に内藤興盛が神光院に「周防国本郡勝間八幡宮社領并三方御神領」を安堵しているが,天正13年3月26日にも毛利輝元の命を受けた内藤元盛が「勝間村厨子八幡宮三方御神領」を「勝間神光院」に安堵している(注進案7)。天正14年の「中国九州御祓賦帳」に「かつまの分 神光院 山角五郎左衛門殿」と見える(県史料中世上)。天正19年4月1日の神光院宛毛利輝元御判物には「周防国熊毛郡小周防勝間村内八幡社領事」という表現が見られる(注進案7)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7425040
最終更新日:2009-03-01




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