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「米屋町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

米屋町(近世)


 江戸期~明治22年の町名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7425409]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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米屋町(近世)

江戸期の町名岩国城下錦見【にしみ】のうち町人地の錦見町の1町岩国七町の1つ錦見町の中央部町名の由来は,岩国城下成立により当地で米を取り扱ったことによるのち,鍛冶屋が集住したため鍛冶屋町とも呼ばれる当町と玖珂【くが】町・柳井町・塩町を合わせて本町と呼ぶ承応4年の岩国町屋敷御帳写(岩国徴古館蔵)によると屋敷数40で,北側は長さ59間・幅14間で家数19,南側は長さ63間・幅17間で家数21屋号として多く見られるのが鍛冶の14軒,ほかに金具屋・研屋・鍔工・大工・菜種屋・塩屋各1軒がみられる当時の町年寄は菜種屋忠左衛門であった元禄年間には刀鍛冶の家筋である安部平左衛門,享保年間頃は鍛冶屋六郎兵衛が町年寄を勤めた(享保増補村記)宝暦11年の町年寄は仙川判兵衛であったこの時の町は北側60間,南側60間小半間,横町3間,合計間口123間半で家数37であった(岩国徴古館蔵宝暦11年米屋町屋敷帳)天保14年の米屋町図面(岩国徴古館蔵)によれば,家数は北側24,南側26,椎尾横町北の側屋敷共に13,中横町裏に6,明覚寺横に2,計71でいずれも間口は5間以下であるほかに慈眼寺・明覚寺がある

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期~明治7年の町名滋賀郡のうち江戸期は俗にいう大津100か町の1つで,幕府領浜町通りの中央にあって南は鍋屋【なべや】町・塩屋町・新町,西は坂本町,北はすべて越前敦賀【つるが】・丹後宮津・陸奥仙台・武蔵川越【かわごえ】(のち坂本町に移る)諸藩の蔵屋敷町名のとおり米問屋の町で明和年間より続いていた蔵元も4軒あった(大津市志)この町と西隣りの坂本町には家裏に物見の亭を持つ家が7軒あったまた仙台藩蔵元福田九郎右衛門は唐臼を備えてはじめて足踏精米を行ったとある(大津珍重記)自治組織は元会所町組慶応元年大津宿役を負担した役家25軒(大津市志)文政元年の幕府御用金は6名で4,640両を負担し,中でも鍵屋佐七は1,700両・万屋孫三郎は1,000両を負担している自治組織は元会所町組明治5年滋賀県に所属同7年隣接の塩屋町と合併して白玉【しらたま】町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期~明治12年の町名江戸期は熊本城下坪井新坪井町懸の一町加藤清正が城下町建設の時,往時の国府,隈本時代の城下町二本木付近から,商工業者を城の東北部坪井にも移転させて開いた町人町の1つ中古町懸にあった同名の町と区別して,坪井の米屋町と称されていた府中案内道矩(県立図書館蔵文書)には「米屋町一丁目,長六橋海道也」と見える米屋町から南へ下り,上通町から下通町を経て,白川に架かる長六橋へ出ていた曹洞宗長門国大寧寺末宗岳寺があった創建は不明であるが,僧玄雪が肥前から来て,天正19年中興開山したという宝永年間前後の外坪井千反畑絵図(県立図書館蔵)によれば,宗岳寺から西側坪井川沿いは知行取の屋敷が並び,入47間・口20間の3,000石朽木内匠の下屋敷などがあった明治12年南新坪井町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期~明治9年の地名米屋村とも称した庄内地方,庄内平野の中央部,最上川右岸に位置するはじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうち庄内藩領平田郷に属す酒田亀ケ崎城下東禅寺分の米屋町組の町分で,もともと集落はなく,耕地からなっていた村高は,元和8年の御知行目録では6石余,「天保郷帳」では52石余,「旧高旧領」では米屋村と見え村高は変わらずなお正保5年土目録(飽海郡誌)では米屋町分として村高は43石余で免4ツ1分「寛文印知集」にも当町名が見える幕末期の「荘内要覧」では免4ツ1分鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年浜田ほか3町と合併して浜田村となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期の府内城下の町名町組千手堂町を構成する6町のうちの1つ千手堂庄屋支配に属す府内城の東南にあり,北は松末町組万屋町,南は外堀,東は大分川に通ずる船入深川をはさんで塩九升【しよくじよう】町,西は古川町に接する貞享元年の「万覚」によれば当町の長さ109間・道幅3間・南北の入15間明治8年まで千手堂町,同22年まで大分町に所属同年以降大分町大字大分の字名・通称地名として存続昭和20年7月16日夜および8月10日の米軍空襲により焼土となる同39年4月1日の新住居表示で大分市大手町1丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期の町名富山城下本町分三十五町の1つ(町方旧記抜書/県史近世下)城下の中心部に位置する町屋町である安永8年には家数5,うち本家3・貸家2(同前)天保12年には丁目なし,本家貸家竈数11・人口48,うち男25・女23(富山町方旧事調理/県史近世下)明治3年に町名変更や,多くの町が併合された記録があり(富山市史)同年頃付近の町に併合されたものと推定される現行の堤町【つつみちよう】通1丁目のあたりか...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期の町名松山城下の町名の1つ城下の北東に位置し,江戸後期,南は魚町,北は魚町筋今町に接し,南北に通る町筋町名は寛永12年の「松山城下図」に見え,元禄期の記事を載せた「松山町鑑」では古町30町の1つ同7年の町鑑では本家35軒・借屋52軒,小間数137間,魚町組に属した町家が建ち並び,免租地であった年不詳だが幕末~明治初年頃魚町に合併現在の本町2丁目を中心とするあたり...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

米屋町(近世)
江戸期の町名伊丹【いたみ】村(伊丹町)を構成する27か町の1つ文禄年間までに成立宗旨改帳(伊丹市図書館蔵)によると文久2年の家数22・人数73鹿島屋清右衛門は天明6年以前から代々当町内に酒蔵を持つ江戸積酒蔵家であった現在の伊丹市宮ノ前2丁目・中央3丁目の各一部にあたる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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