- JLogos検索辞書>
- 下郷村(近世)とは
「下郷村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
下郷村(近世) 江戸期~明治10年の村名下益城【しもましき】郡のうち下江村とも書く八代【やつしろ】平野北部,白岩山の西方に位置する地名の由来は,当地はもと中間村・下中間村とともに海渚で,慶長年間に墾田とされ,中山手永の下江村・中間村の農民を移住させたことによるという(肥後国誌)熊本藩領村高は「旧高旧領」958石余「肥後国誌」では河江手永に属し,高952石余,小村にコセ島があり,中間村を当村のうちとして別記する寛政10年干拓の下郷北割新地,同11年干拓の反別69町余の下郷南割新地(松橋町史),天保7年干拓の下郷今新地を各々合わせており,中間村・下中間村が当村から分村鎮守は豊福村の豊福神社寺院は浄土真宗宗覚寺で,蓮如筆と伝える六字名号を有する下郷北割新地・下郷南割新地はともに藩主細川氏一門で家老の長岡(米田)堅物の築造によるため,堅物新地とも呼ばれる明治7年本村・瀬子島村の2か村を合併熊本県,八代県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属江戸末期~明治初期には私塾が開設されていた同10年の西南戦争に際し,宗覚寺の堂宇が兵火で焼失同年西下郷村と改称 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下郷村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下郷村(近世) 江戸期~明治9年の村名小県【ちいさがた】郡のうち千曲川支流神川【かんがわ】左岸の段丘上に位置する集落の東にある氏神深区神社は,岩清水から移されたものという下郷を東西に流れる角田川も岩清水から流れ出すところがら,村名の由来を岩清水に対する下郷とする説があるまた古代における山家郷の本郷に対する下郷とする見解もあるが,定かでないもと矢沢村の一部はじめ上田藩領,寛文9年前藩主仙石政俊の弟政勝が分知し,旗本仙石氏領となる寛文9年の同人分知目録では,矢沢村分とされながら「下ノ郷」として併記されている一説に,元和8年仙石氏が上田藩領主になってから寛永年間までの間に分村したという(小県郡史)「元禄郷帳」で矢沢村と分けて下郷村339石余が見え,「天保郷帳」も同高,「旧高旧領」371石余元文5年の宗旨改目録で人口340天保9年の家数人別仕訳書付では家数52,人口361うち男170・女191明治2年中野県,同4年長野県に所属同9年殿城【とのしろ】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下郷村(近世) 江戸期~明治初年の村名宇和郡のうち宇和島藩領矢野組・保内郷に所属千丈川中流域に位置する村高は天正検地では338石余,「慶安郷村数帳」では338石余,うち田152石余・畑185石余,「元禄村浦記」「天保郷帳」ともに419石余天和2年の給人の知行分は山田七右衛門50石「墅截」では村柄は上,水掛りは吉とあり,百姓数58,うち本百姓27・半百姓21・四半百姓9・庄屋1「大成郡録」では家数86軒・人口491,牛39・馬30,田20町余・畑18町余,小物成は真綿・麻苧・漆のほか薪173束・鍛冶炭7石余・本茶8斤・山役銀27匁余など庄屋は江戸期を通じて兵頭家で,東隣りの上郷村庄屋も兼帯した社寺は豪族菊池氏の菩提寺三上寺の守護神として延宝6年に勧請された金刀比羅宮,字梨尾【なしのお】の円満山蔵福寺同寺は臨済宗に属し,開基は明暦2年と伝える(寺伝)明治6年愛媛県に所属明治初年に上郷村と合併して郷村となる現在の八幡浜【やわたはま】市大字郷のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下郷村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下郷村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下郷村(近世) 江戸初期の村名武蔵国久良岐【くらき】郡のうち下末吉台地の南端,大岡川上流域に位置する中世には篠下のうちで,下笹下郷に当たる地域村名について,「新編武蔵」には下笹下郷の略称とある寛永10年幕府領村高は,「田園簿」では891石余うち田558石余・畑333石余,ほかに新田見取場6石余・新畑見取場11石余・野銭永700文・萱野塩場役永220文正保年間から元禄年間頃までの間に雑色【ぞうしき】・関・松本の3か村に分村なお,この3か村は「元禄郷帳」「天保郷帳」では下郷を冠称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」