- JLogos検索辞書>
- 下畑村(近世)とは
「下畑村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 下畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下畑村(近世) 江戸期の村名長門【ながと】国豊浦郡宇賀村のうち粟野川支流の太田川上流域に位置する長府藩領村高は,西豊浦郡宇賀上畑・下畑両村目録(山本家文書)では,元禄8年に田50石余(3町1反余)と畑15石(4町4反余),天保14年7石余の新開があり,同年には田625石余・畑81石余で田畑27町1反余,「旧高旧領」には668石余と見える弘化2年の村明細帳によれば,家数は農民63・藩士1・陪臣3,人数289(男164・女125),諸職業は大工免札1・桶屋1・鍛冶屋1・紺屋1・細物1・糀屋1とある神社には大庭社・天神宮・荒神森2があり,寺院には阿弥陀堂1・観音堂1・石地蔵2がある御米浜蔵が二見浦にあった明和8年は旱魃のため,上畑村から字浮山の堤床1反1畝を購入し,文政9年は旱魃で番水帳もなく間違いが多かったので,「番水其外水手控帳」を作成したまた安政5年は凶年につき,上畑・下畑村の百姓が蔵米35俵の借用を申し出たまた,安政6年には当村と大河内村に疫病が流行した天保9~15年まで,八城に医師川田健明の藍塾があった(豊北町史)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下畑村(近世) 江戸期~明治8年の村名備前国和気郡のうち八塔寺山塊南東部に位置し,集落は山腹から八塔寺川流域にかけて形成される村名は,八塔寺から見て下方の畑地の意味と伝える宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」43石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに82石余なお「備陽記」では,高43石余,反別7町1反余,家数13・人数106また化政期の和気郡手鑑(和気郡史)では,高43石余・又高38石余,田3町9反余・畑3町2反余,家数25・人数101神社は八幡宮・岩戸七社,また薬師堂・地蔵堂もあり,育麦蔵も置かれていた特産には茶・炭・灰がある明治4年岡山県に所属同8年加賀美村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」