ケータイ辞書JLogosロゴ 末益名(中世)


山口県>山陽町

 鎌倉期〜戦国期に見える名【みよう】の名。長門【ながと】国厚狭郡のうち。貞応2年11月18日付の松岳寺院主大賢の解状に,松岳寺領として「一所王子坪〈東鴨庄 南末益名〉」「一所仏性田〈東末益名 西山河別府〉」「一所三稜〈南末益名 西北山河別府〉」「一所藺刈〈南末益名 西山ノ井〉」と見える。下って明徳3年5月24日付の大内義弘遵行状によれば,筥田長門入道が松岳山正法寺領を末益名内に混じる違乱をしている(注進案16)。また応永10年11月22日付の陶弘長宛大内氏奉行人連署奉書によれば「末益名内右田図書允跡土貢参拾石地」が小野式部丞資宣に宛行われた。以降,同地は小野氏による当知行が続いたとみられ,天文21年6月3日付の譲状によれば「厚狭郡末益名内三拾石足」が小野清資より矩資に譲られ,永禄10年5月4日には毛利輝元が隆元の証判に任せて小野俊久に安堵している(閥閲録71)。また天文22年6月20日,竹田法橋定詮の所領注文には「末益名四歩(分カ)一反銭加之」と見え,段銭・諸添役以下が免除されており,下って弘治3年4月22日には毛利隆元が定詮に対し「末益名」の4分の1などを「先代証文」に任せて安堵している(閥閲録141)。その他弘治3年4月14日付壇伊賀守秀定の当知行分注文に「壱石六斗 同厚狭郡長光寺半済分,末益名在之」と見え(寺社由来4),同年8月15日には毛利隆元が「厚狭郡内末益名拾五石」等を岩武右衛門尉実秀に宛行っている(閥閲録160‐2)。この間永享4年3月17日には大内持世が「末益名内拾伍石地〈通津備中守跡〉」を長門国一宮に寄進し,文明13年6月の一宮神領豊東・豊西両郡田数土貢注文案写にも持世寄進分として「一所貞応壱町参段大 厚狭郡末益名内木部田 平田三町六拾歩 分米拾五石」と見える(住吉神社文書/住吉神社史料上)。また,文安3年2月10日大内政弘が「厚西郡之内末益石(名)七拾壱町」を惣社八幡の大宮司に私領として宛行っており,天正11年10月10日付の長門国厚狭郡末益名惣社八幡領検地帳には,末益名の社得分として田数6町7反大30歩・分米40石5升8合5勺,畠数2町9反60歩・地子4石2斗(2季分),屋敷数6反・地子1石2斗3升,田数7反・分米4石1斗2合諸除分と記されている(寺社由来4)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7425625
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ