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- 高井村(近世)とは
「高井村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 高井村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高井村(近世) 江戸期~明治8年の村名因幡【いなば】国法美【ほうみ】郡のうち「たかえ」ともいう袋川の支流高岡川の左岸山すそに位置する地名の由来は湧水が高所にあったことにちなむという鳥取藩領村高は,拝領高137石余,「元禄郷村帳」137石余,「天保郷帳」162石余(うち新田高24石余),「元治郷村帳」163石余,「旧高旧領」164石余元禄の本免は7.0,「元治郷村帳」の物成は95石余戸数は,「因幡志」14,「文久3年組合帳」16天保3年の宇倍野山役は2斗近世以前に高岡川上流の高井堰から山裾に用水を通して開拓し,近世初頭に高岡村から分村したと推定されるこのため,村政はしばしば高岡村と共同に運営されており,享保5年3月の山境争論をめぐる文書では法美郡高岡村・高井村庄屋と記されていて,両村同一の庄屋であった水田耕作とともに薪・屋根用茅生産なども重要な生業であった文政2年当村ほか2か村と麻生村とのあいだで草山入会争論が起こる(県史10)弘化4年高岡村庄次郎が宮下村又兵衛から瓦焼株・諸道具を買い取り,当村西南の山すそに窯場を築いて瓦を製造する(大庄屋文書)「因幡志」によれば,氏神は高岡村の牛頭天王,地内には観音・薬師の辻堂がある別に中央部の森に稲荷社があり,文政年間頃狐にいたずらした村民が神隠しにあったことに由来し,当屋制度を定めて主人夫婦が赤飯を作り,全戸が参籠ののち当屋に集まり徹夜で飲食する「勘ねもん節句」の行事がある地内天ケ谷に近世の石切場ともいう石くつがある明治4年鳥取県に所属同8年高岡村に合併するただし,「県史近代」5では明治10年のこととする... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高井村(近世) 江戸期~明治8年の村名牟婁【むろ】郡のうち富田【とんだ】川河口付近の右岸沖積地に位置する村名は,河口付近の小高い地に位置し,富田川の堰があることによるという(続風土記)和歌山藩田辺領村高は,慶長検地高目録では195石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに199石余御高並村名帳によると富田組に属し,村高199石余うち新田高4石余(南紀徳川史10)「続風土記」では家数45軒・人数148宝永4年・嘉永7年などにしばしば地震にともなう津波の被害をうけており,ことに宝永7年の津波では壊滅的な打撃をうけた寺院は臨済宗白華山観福寺がある明治4年田辺県を経て和歌山県に所属同6年には戸数36,男78・女72同8年栄村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高井村(近世) 江戸期~明治11年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高井村(近世) 江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」