ケータイ辞書JLogosロゴ 恒富保(中世)


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 鎌倉期〜戦国期に見える保名。周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち。建久8年2月24日付前右大将家政所下文案(三浦家文書/大日古)によって武蔵国出身の平(平子)重経が,周防国仁保荘とともに「恒富保」の地頭職に補任された。貞応3年5月重経は重資を嫡子となし,仁保荘地頭職を与え,恒富保を重継へ譲与した。この重継の子孫が当保に居住し,在地名から恒富氏を称したという。三浦家系図によると,重継の子息弘重・重教はそれぞれ恒富・吉田と称したという(同前)。おそらく重経は弘重に恒富保を,重教には吉田村を譲ったものであろう。徳治3年2月16日には恒富保の平清水八幡宮と吉田村諸社神主職が藤井光永から長賢に譲られている(県風土誌13)。南北朝期の貞和4年12月29日には,足利尊氏が「吉敷郡内吉田・恒富両郷地頭職」等を伊豆国長崎の替りとして三河大介設楽大夫へ宛行っている(正閏史料/大日料6-12)。室町期に入ると,応永21年12月21日,地頭平子重則・願主阿闍梨忍長(大和多武峰住僧)らが「恒富保 吉田郷高蔵寺」の境内社熊野権現の洪鐘を鋳造している(注進案12)。また,文明3年3月5日,「恒富保内公領分陸拾町伍段大」が石見国の益田氏の代官勝達坊へ打ち渡されており(益田家什書/大日料8-5),翌月15日には「吉田村・恒富保両所分弐拾七石八斗七升」等が,大内政弘によって大内教弘開創の宮野荘内妙喜寺へ寄進されている(長防風土記/同前8-4)。その後,保内の益田氏領については,文明10年11月25日には大内政弘が「恒富参百参拾石地」等を益田治部少輔貞兼に宛行っており(益田都氏所蔵文書/萩市史),同15年4月28日には益田貞兼から熊童丸へ「恒富保」等が譲与されている(益田家什書/大日料8-15)。大内義興は永正14年(推定)8月15日付知行安堵状で「恒富」等を益田氏へ安堵した(同前/萩市史)が,永禄13年2月9日付の次郎元祥宛益田藤兼譲状案(同前/大日料10-4)によると,元祥に譲与された所領のなかに「恒富保三百五十貫不知行」等と記されているから,この頃には,益田氏の所領は,不知行化していたとみられる。これは毛利氏の防長進出に際して毛利氏側となった吉見氏が,恒富などの益田氏領を侵略し,毛利氏からそれらを給ったものと解されている(地名淵鑑)。吉見正頼の孫元頼の家臣下瀬七兵衛頼直の著した「朝鮮渡海日記」には,天正20年3月12日のこととして,「其日ハ先御知行恒富まて御着候」(県史料中世上)とあり,この頃には当地は吉見氏領ではなかったことが知られるが吉見氏から離れた時期は明確でない。その後の妙喜寺領については,弘治3年8月18日付昌洞和尚宛毛利隆元裁許状(妙喜寺文書/常栄寺史料),永禄12年6月8日付同人宛毛利輝元裁許状(同前)により安堵され,天正5年閏7月13日付祐鑑和尚宛毛利輝元裁許状(同前)により,不知行の残分「恒富保内拾四石四斗七升足〈田数参町九段半五拾歩〉」等が安堵された。妙喜寺領は吉田村と合わせて27石余であり,室町期以降変化していない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7425871
最終更新日:2009-03-01




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