ケータイ辞書JLogosロゴ 椋野村(近世)


山口県>久賀町

 江戸期〜明治22年の村名。大島郡のうち。萩藩領。大島宰判に属す。村高は,慶長15年検地帳628石余,寛永2年検地帳928石余,元文2年1,020石余(地下上申),「天保郷帳」1,016石余,「注進案」1,107石余,「旧高旧領」1,109石余。慶長15年検地帳によると,田42町余・畑18町余・百姓屋敷54軒,小物成6石余である。寛永2年検地帳では,田畑の面積は大差ないが,百姓屋敷が64軒に増加している。小村に平原・宮ノ下・山下・向田・西ノ原・山崎・東皆地・さがみがある(地下上申)。家数・人数は,元文2年150・484,うち男260・女224(地下上申),天保13年343・1,702,うち男838・女864(注進案)。この約100年間に軒数は2.28倍,人数は3.5倍の増加で,大島の他村と共通する激増ぶりである。御米蔵は山下に1か所あった(地下上申)。産業は農業が主で,天保13年には牛123頭が飼育されている。同年の職業分布は農業が282軒のほか,大工4・船大工1・桶屋1・木挽1・鍛冶2・商人9・畳屋1・伊佐波持12・渡海乗5・漁人20となっている(注進案)。農業以外に女の機織りなど副業が盛んで,白木綿2,394反・縞木綿3,762反のほか,篠小苫1万2,972帖・縫莚1万434帖や煎海鼠791斤がある(同前)。また,漁業は芸州から新左衛門・庄左衛門が移住して始めたという(同前)。江戸期の終りには廻船業が盛んになり,元文2年には150石積1・50石積2・漁船5であったが(地下上申),天保13年には600石積2・500石積3・400石積1・300石積1・200石積1で,計廻船8艘のほか,伊佐波4・渡海船5・漁船14と,合計31艘で大幅な増加である(注進案)。明治4年山口県に所属。同12年の「物産表」によると,米50町余・麦39町余の作付けで,米662石余・麦178石余をあげ,特産物として縞木綿2,000反・楮皮3,125斤・縫莚8,000帖があがっている。漁業は,同13年に専業23戸,漁船23,主な漁獲は鯛・蛸・鰆であった。同15年には漁家25戸,漁船45と増え,うち蛸用船20となっており,このころ今の漁業形態が定着したものと思われる(ふるさと椋野)。同16年椋野の戸数384・人口1,843,職業比率は農業51.7・工業5.9・商業17.3・木綿製造17.2・漁業2.0・出稼ぎ5.9である(同前)。神社は天満宮があり,椋野神社とも呼ばれている。氏神は古くから小松村の志駄岸八幡宮であった。寺院は曹洞宗寧馨山天徳寺があり(注進案),のちに天浄寺と改称した。天保14年大呑許義の咬菜学舎が開塾し,大呑塾ともいわれ,明治12年まで続いた。この間,世良修蔵・大洲鉄然など幕末志士をはじめ,世良徳寿・近藤慶一・佐川健治など,明治期の大島の指導層を育てた。幕末から明治初期にかけて,ほかに椋野には寺子屋が8つあった(日本教育史資料)。椋野小学校は,明治6年空心寺を仮校舎として発足,同9年大歳原に新校舎を建て移転した(ふるさと椋野)。同22年蒲野【がまの】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7426638
最終更新日:2009-03-01




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